独立までの経緯
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仏領インドシナ連邦下のラオスは、北部のルアンパバーン王国と南部のチャンパーサック王国とに分裂していた。しかし1945年3月9日に日本軍が仏印処理を断行してフランス軍を一掃し、フランス植民地政府を打倒すると状況は変わった。4月初めにルアンパバーンに到着した日本軍を見たルアンパバーン王国のシーサワーンウォン王は、長年にわたるフランス支配が遂に終焉したことを知り、ラオス王国の国王として4月8日に独立を宣言した。これをラオス国民も歓喜をもって迎えた。しかし、南部には尚チャンパーサック王国が存続していたことから、王国の支配はラオス全域には及んでいなかった。だが、従前の仏領インドシナ連邦の支配体制が崩れたことで自立への新しい道が開け、ルアンパバーン王国時代から首相職にあったペッサラート親王(ルアンパバーン王国のブンコン副王の王子)は行政のラーオ族化を進めていった。しかし、同年8月15日に日本が連合国に降伏すると、王国の指導者や王族の間で意見の対立が生じ、結果的にそれがラオス人民民主共和国の成立に至るまでの騒乱の源となった。 日本の敗戦によって後ろ盾を失ったシーサワーンウォン王は、ラオスの独立宣言を撤回した。それに対し、独立を求める民族主義者達はレジスタンス運動組織のラーオ・イサラ(Lao Issara、自由ラオス)を結成し、同年10月に臨時政府を樹立した。しかし、1946年4月にフランス軍がラオスを再制圧し、ラーオ・イサラの指導者達はタイ王国に亡命した。フランスは同年8月、親仏派のシーサワンウォン王に対し、フランス連合における統一ラオス王国の王として内政の自治権を与えた。それを受け、シーサワンウォン王は1947年5月に憲法を制定し、ラオスを立憲君主国とした。1949年7月19日、第一次インドシナ戦争を戦っていたフランスは、同年6月に成立したベトナム国の正統性を強調し、かつインドシナ全域に影響力を残すために、ラオスをフランス連合内の協同国として独立させた。この独立は名目に過ぎず、外交権・軍事権はフランスに握られたままであった。 その後、王国政府の懐柔により、タイに亡命していたラーオ・イサラ指導者は亡命政府を解散し多くが国内に戻った。しかし、王国政府の懐柔に妥協しないラーオ・イサラ左派は、ベトミン及びインドシナ共産党に触発され、スパーヌウォン親王やカイソーン・ポムウィハーン(インドシナ共産党員)を主導者に、1950年8月にネオ・ラーオ・イサラを組織した。
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独立までの経緯
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「パレスチナの独立宣言」の記事における「独立までの経緯」の解説
1974年10月28日、ラバトで開催された1974年のアラブ連盟サミット(英語版)は、「パレスチナ人の唯一正当な代表」としてPLOを指名し、「速やかに独立国を建国する権利」を再確認した。
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