独立までの経緯とは? わかりやすく解説

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独立までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 00:07 UTC 版)

ラオス王国」の記事における「独立までの経緯」の解説

仏領インドシナ連邦下のラオスは、北部ルアンパバーン王国南部チャンパーサック王国とに分裂していた。しかし1945年3月9日日本軍仏印処理断行しフランス軍一掃しフランス植民地政府打倒する状況変わった4月初めにルアンパバーン到着した日本軍見たルアンパバーン王国シーサワーンウォン王は、長年にわたるフランス支配遂に終焉したことを知りラオス王国国王として4月8日独立宣言した。これをラオス国民歓喜をもって迎えた。しかし、南部には尚チャンパーサック王国存続していたことから、王国支配ラオス全域には及んでいなかった。だが、従前仏領インドシナ連邦支配体制崩れたことで自立への新しい道開けルアンパバーン王国時代から首相職にあったペッサラート親王ルアンパバーン王国ブンコン副王王子)は行政ラーオ族化を進めていった。しかし、同年8月15日日本連合国降伏すると、王国指導者王族の間で意見の対立生じ結果的にそれがラオス人民民主共和国の成立に至るまでの騒乱の源となった日本の敗戦によって後ろ盾失ったシーサワーンウォン王は、ラオス独立宣言撤回した。それに対し独立求め民族主義者達はレジスタンス運動組織ラーオ・イサラLao Issara、自由ラオス)を結成し同年10月臨時政府樹立した。しかし、1946年4月フランス軍ラオスを再制圧しラーオ・イサラ指導者達タイ王国亡命したフランス同年8月親仏派のシーサワンウォン王に対しフランス連合における統一ラオス王国王として内政自治権与えた。それを受け、シーサワンウォン王は1947年5月憲法制定しラオス立憲君主国とした。1949年7月19日第一次インドシナ戦争戦っていたフランスは、同年6月成立したベトナム国正統性強調し、かつインドシナ全域影響力を残すために、ラオスフランス連合内の協同国として独立させた。この独立名目過ぎず外交権軍事フランス握られたままであったその後王国政府懐柔により、タイ亡命していたラーオ・イサラ指導者亡命政府解散し多く国内戻った。しかし、王国政府懐柔妥協しないラーオ・イサラ左派は、ベトミン及びインドシナ共産党触発されスパーヌウォン親王カイソーン・ポムウィハーンインドシナ共産党員)を主導者に、1950年8月にネオ・ラーオ・イサラを組織した

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独立までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 23:40 UTC 版)

パレスチナの独立宣言」の記事における「独立までの経緯」の解説

1974年10月28日ラバト開催され1974年アラブ連盟サミット英語版)は、「パレスチナ人唯一正当な代表」としてPLO指名し、「速やかに独立国建国する権利」を再確認した。

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