独立への道
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紀元前620年、韓万の玄孫の韓厥が司馬に登用され、その軍略の高さと、かつて世話になった趙氏の再興に尽力したことで輿望を集め、紀元前573年に韓厥が正卿・中軍の将になったことで韓氏は力を持ち始める。更に紀元前541年にその子の韓起も正卿となったことで、韓氏は政治を司る大臣の六家(六卿)の一つとなる。 春秋末期になると、韓虎が趙氏・魏氏などと共に同じく大臣の一族である智氏を紀元前453年に滅ぼし、魏・趙と共に晋の領地を分割して独立した。その後の紀元前403年に周の王室から正式に諸侯として認められ、これより戦国時代が始まる。
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独立への道
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1969年、西側諸国からダルマチア海岸を観光に訪れる人々が多数に上り、その94%がスロベニア経由で訪れていた事からスロベニア首都リュブリャナからイタリア、オーストリア国境とを結ぶ高速道路が建設されることが決定、世界銀行から総額3400万ドルに及ぶ融資を受ける事となった。しかし、中央政府はこれをマケドニア、コソボ、モンテネグロなど南部地域への使用する事を決定した。このため、スロベニア政府はこれに大規模な集会を開いて抗議したが、チトー及びカルデリはスロベニアが中央政府へ圧力をかけているとして批判した。しかし、スロベニア政府代表はこれに対して共産主義者同盟内の古参幹部らが実務的官僚主義勢力を形成したことにより、中央集権化を行おうとしていると反論した。この「自動車道事件(ハイウェイ事件とも)」によりスロベニア人がユーゴスラビアの現状に満足していないことが現れていた。 1979年カルデリが死去した事によりスロベニアでは権力闘争が生じていたが、1982年、ユーゴスラビアでの教育プログラムを共通化させることをセルビアが提案したことによりユーゴスラビア内に緊張が走った。スロベニアはこの共通化が民族的アイデンティティを侵害するものとして、1971年に「クロアチアの春 (en) 」と呼ばれる民族運動を経験していたクロアチアと共にセルビアへ抗議を行った。 チトー死後、ユーゴスラビアの国家元首は連邦幹部会議長が輪番で勤めることになったが、これにより中央集権主義者と反中央集権主義者との間での抗争が勃発、民族主義者と見做された人々は裁判にかけられた。さらに1981年、コソボ自治州のプリシュティナ大学 (en) でアルバニア系学生が蜂起、これは鉱山労働者などにまで波及、深刻な問題と化した。このためユーゴスラビア連邦軍が投入されたが、この騒ぎで1,000人以上が死亡したとされている。スロベニアではこのアルバニア人らを受け入れ、リュブリャナなどではコソボからの難民が商店やカフェなどを開店するなどして生活することとなった。 1986年、セルビア社会主義共和国をスロボダン・ミロシェヴィッチが掌握、「全てのセルビア人が同一の国に住むこと」を主張してクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人らをセルビアへ統合する「大セルビア」の構想を練りだすとさらに問題が深刻化することとなった。このため、スロベニアでは作家や学生たちが立ち上がり、第12回社会主義青年同盟大会ではチトーへの個人崇拝ではなく、市民社会の実現を目標にすることをイデオロギーとして採用することを主張した。これには軍や党が警告したにもかかわらず世論の支持を得たがこれよりもユーゴスラビア南部の共和国へ対する不満の方がさらに高まっていた。さらにユーゴスラビア内では1979年に始まった第二次オイル・ショックの影響が忍びよっており、1982年以降、消費者物価が年率9%で上昇、物価水準は1989年の時点で1954年の13,85倍にまで達していた。この不満はスロベニア全体に広がりを見せ、中央集権経済への失望が高まっていた。 1987年、スロベニアのリベラル派知識人とカトリック系知識人らが共同して「ノヴァ・レヴィヤ(新評論) (en) 」が創刊され、一党独裁の廃止、民主主義や市場経済の導入、ユーゴスラビアを国家連合へ改変した上でその枠内でのスロベニアの独立などを軸とするスロベニア民族綱領を発表した。これに対してスロベニア共産主義者同盟議長ミラン・クーチャン (en) は反対しないことを表明したため、スロベニアと中央政府の間で対立が生じ、輪番制の国家元首にスロベニア議長が就任することを拒否したが、これはさらにスロベニアと中央政府との対立を激化させただけにすぎなかった。 そのためユーゴスラビア連邦軍はスロベニアの雑誌「ムラディーナ(青春) (en) 」の編集者らが雑誌内で連邦軍の批判を行った際に機密文書を使用していたと主張、1988年に彼らを裁判にかけた。この裁判はリュブリャナで開かれたにもかかわらず、スロベニア語ではなくセルビア・クロアチア語が使用されたため、スロベニアの人々は「ノヴァ・レヴィヤ」で発表された綱領への支持を行うようになった。そのため中央政府は1988年8月、連邦憲法の一部を改正、各共和国への制限を強める事となった。 しかしスロベニアの世論の高まりによりスロベニア共産主義者同盟、スロベニア社会青年同盟らはその影響を受け、スロベニア共産主義者同盟議長、ミラン・クーチャンは尽力を見せた。ユーゴスラビア共産主義者同盟の指導者は中央集権を強めるためにスロベニア世論の操作を試みたが、スロベニアで進む自由化を止める事はできなかった。1989年1月、「スロベニア民主同盟」 (en) が成立した上で7月にスロベニア共産主義者同盟 (en) が指導勢力しての役割を放棄したことにより「民主同盟」は正式に存在が認められることとなった。それに付随してリュブリャナではセルビア指導者ミロシェヴィッチがコソボ自治州に三度、連邦軍を投入した上で自治州の自治権を剥奪してセルビア共和国への統合を行うなどの超民族主義的政策に反感が募っていた。1989年2月、リュブリャナでコソボのアルバニア系住民とスロベニア人らの連帯を表するための大集会が開催されたがこれをミロシェヴィッチが組織的手法で対抗、リュブリャナでセルビア人らによる大集会を開催しようとした。しかし、これはスロベニア政府によって禁止されたため、セルビア共産主義者同盟 (en) はスロベニアへの経済制裁を呼びかけた。 1989年5月、スロベニアの野党勢力が南スラヴ民族と共存しながらも「スロベニア民族が主権を持つ国家」の樹立を目的として「5月宣言」を発表した。これに対して中央政府は圧力を強力にかけたが9月にスロベニア議会が共和国憲法を改正を発議、国際的主権がスロベニアに属する事を規定することが目的であったが、一党独裁制時代に選ばれた議員らは全て賛成、決議された。このため、スロベニアの独立が規定され時間と方法だけが問題となった。スロベニア政府はスロベニアが連邦内での特別な地位となることを望んでいたが、野党勢力らはユーゴスラビアを国家連合にすることを望んでいた。さらに政治的組織としてスロベニア政府は既存の組織「社会主義同盟」内で複数の派閥が活動することを望んでいたが、野党勢力は複数政党制による真の民主主義を求めた。このため、1989年11月末、スロベニア政府は世論の絶大なる支持を元に中央政府が求めていたデノミネーション(新ディナールの導入)や給与凍結を軸とする経済政策を拒否、これに対応してセルビア及びモンテネグロはスロベニアへの経済制裁を行ったが、スロベニアは同じく独立を目指すクロアチアと協力して対抗した。さらにスロベニアの野党であるスロベニア民主同盟、社会民主同盟 (en) 、スロベニア農民同盟 (en) 、キリスト教民主党 (en) 、スロベニア緑の党 (en) らが連合して野党連合「デモス(DEMOS)」 (en) を結成、共産党へ対抗した。
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独立への道
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18世紀末、ギリシャ解放運動を行うために秘密結社が結成された。この代表者であるリガス・ヴェレスティンリス・フェレオスは1798年にフランス革命の影響を受けた上で『ルメリ、小アジア、エーゲ海諸島、およびワラキア・モルドヴァ住民の新政治体制』を著して、ナポレオンがギリシャ入りした時、蜂起することを企てていた。しかし、この活動はオスマン当局に知られることになり、リガス・ヴェレスティンリスは処刑されたが、彼のオスマン帝国下のバルカン諸民族を解放、ギリシャ人を中心にしてギリシャ共和国(バルカン共和国、バルカン連邦とも)を創設するという思想はフィリキ・エテリアに継承され、リガスはギリシャ独立の最初の「殉教者」として記憶されている。 フランス革命の影響を受けたのは彼らだけではなかった。フランスに生活していた幾人かはフランス革命に参加しており、1792年以降、フランスとギリシャの関係が堅固なものになっていた。1795年から翌年にかけてマルセイユ港において出入する船の中でもギリシャ船の数は2位か3位を占めており、マルセイユにおけるギリシャ人の地位は重要性を帯びていた。そしてフランスの保護を受けたギリシャ船はトルコの国旗ではなく、エルサレムの旗を掲げたことから彼らは「独立せるギリシャ人」と呼ばれた。そしてエフティミオス・ブラハバスを指導者としてテッサリアで発生した農民一揆(1808年 - 1809年)はフランスの影響を受けたものであった。 また、ヴェレスティンリス以外にも秘密結社が設立された。1809年にはパリの「ヘリノグロッソン・クセノドキオ(ギリシャ語ホテル) (en) 」、1812年にはアテネの「フィロムソス」などこれらは見た目はギリシャの文化発展に奉仕することを掲げながらも事実上、民族革命の準備組織であった。 1814年、オデッサにおいてギリシャ人商人であるエマニュエル・クサントス (en) 、ニコラオス・スクファス (en) 、アタナシス・ツァカロフ (en) ら3人によってフィリキ・エテリア(友愛協会)と呼ばれる秘密組織が結成された。このフリーメイソンに似た組織はオスマン帝国下のギリシャ人だけではなくイオニア諸島、ロシア、西欧、中欧のギリシャ人までも参加していた。このエテリアの目標はギリシャの解放であったが、当初は全般的に低迷しており、その手段や将来像も会員らの間で一致しておらず、セルビアとの共闘を目指して第一次セルビア蜂起 (en) の指導者で蜂起が鎮圧された後、ベッサラヴィアへ逃亡していたカラジョルジェ・ペトロヴィチ (en) を会員にすることに成功、セルビアで新たな蜂起を計画したが、これは第二次セルビア蜂起 (en) の指導者ミロシュ・オブレノヴィチの政策に真っ向から対立したため、カラジョルジェは暗殺された。そのため、セルビアでの蜂起計画は頓挫した。その後、ロシアがエテリアを支持しているという噂が出回っていたため、多くの人々が参加した。 そのため、エテリアの指導者層はロシアから援助を獲得しようと考え、ロシアへの接近を試みた。そして指導者には、イオニア七島連邦国に携わり、また1809年以降、ロシア皇帝アレクサンドル1世の下で外務次官を務めていたイオアニス・カポディストリアスに着任するよう要請した。しかし、外交経験豊富なカポディストリアスはエテリアの企てがナポレオン戦争後のヨーロッパの秩序を乱す可能性があることから失敗に終わると判断、度々の要請もこれを断っていた。 結局、組織の指導者には、オスマン帝国と敵対しているロシア帝国の将校でファナリオティス出身のアレクサンドロス・イプシランディスが1820年4月に着任、ギリシャ解放への手段、武装蜂起計画が練られ、フィリキ・エテリアがギリシャ解放の嚆矢となることが決定されたが、ギリシャ主導による計画だったため、セルビア人、ブルガリア人らの支持を得ると言う楽観的な計画は盛り上がりに欠けていた。しかし、クレフテスやアルマトリらは数万の兵を集めた上でアリー・パシャの学校やイオニア諸島に設けられた軍事集団の中で十分な訓練を受けており、武装してロシア、フランス、イギリスの戦争に参加したことのある快速で軽装なギリシャ商船隊もオスマン艦隊が経験豊富なギリシャ人乗組員を失ったために、これに十分、対抗できるだけの力を持っていた。そしてイプシランディスが指導者に着任したことはその背後にロシア皇帝アレクサンドル1世とカポディストリアスが存在しており、彼らの支援が受けられると信じた会員もいた。 1820年7月以降、イプシランディスはロシア各地で活動を続けた後、10月7日、ベッサラヴィアのイスマイルでフィリキ・エテリアの主力メンバーを招集した上で上記方針を決定、2ヶ月以内に蜂起することが決定された。
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