独立へ向けて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/05 07:04 UTC 版)
レオポルドヴィルの暴動の影響として、その年に作成されたコンゴの将来に関するベルギー議会の審議会の報告書の中では「内部の自治」の需要の高まりが指摘された。植民地大臣オーガスト・デ・スフライファー(英語版)は1960年1月にコンゴのすべての主要政党の指導者をベルギーの首都ブリュッセルに一同に集めて円卓会議(英語版)を開催した。スタンリーヴィルで起こった暴動の後に逮捕されたパトリス・ルムンバは会議に出席するために釈放され、MNC-Lの代表団を率いた。ベルギー政府側は独立まで少なくとも30年の準備期間を置くことを希望していたが、コンゴ側の圧力に屈した結果、独立の日を1960年6月30日に設定することが急遽決定した。連邦制を含む民族的帰属の問題や、コンゴに対するベルギーの今後の役割などについては代表団が合意に達せず、未解決のまま残された。 多くのベルギー人が、独立したコンゴがフランス共同体やイギリス連邦のような国家連合の一部となることで、ベルギー本国との政治的にも経済的にも緊密な関係が継続させることを希望していた。独立の日が迫った1960年5月にベルギー政府はベルギー領コンゴの国政選挙(英語版)を実施した。選挙ではMNCが大多数の議席を獲得した。 1960年6月30日、予定通りにコンゴ共和国の独立と植民地支配の終わりが宣言された。レオポルドヴィルで挙行された独立式典において、ベルギー国王ボードゥアンが行った挨拶は私領地としてコンゴ自由国を創設して非人道的な暴虐な統治を行い、非難された彼の祖父の叔父に当たるレオポルド2世を「天才」と呼び、コンゴの独立をベルギーによる「文明化の集大成」と表現した上、「(ベルギーが残した諸制度の)性急な変更は将来を危うくする」と忠告までした。続いて演説を行ったカサブブは独立を承認してくれたベルギーに対しての感謝の意を表明したが、その後に演説を行ったルムンバはベルギーによる植民地支配を「屈辱的な奴隷制」として徹底的に糾弾し、独立を勝ち取った自分達の闘争を絶賛して観衆から喝采を浴びた。このルムンバの演説に憤慨したボードゥアンは昼食会には参加したものの、予定を変更して急遽帰国の途についた。マルコム・Xのようにルムンバの演説を称賛する者もいたが、数人のコンゴの政治家は演説が必要以上に挑発的であったとの見解を示し、国際問題(英語版)も引き起こした。そうした状況にも関わらず、コンゴ全土は祝賀ムードに沸いた。 コンゴの新政府は半大統領制を採用し、大統領と首相が行政権を共有することになった。初代大統領にはジョゼフ・カサブブ、初代首相にはパトリス・ルムンバが就任した。CONAKATなどの連邦主義派が反対したにも関わらず、レオポルドヴィルの中央政府には強力な権限が付与され、州政府の権限は比較的弱かった。なお、1ヶ月半後に成立した西に隣接する同名のコンゴ共和国(コンゴ・ブラザヴィル)とはコンゴ・レオポルドヴィルと首都名を示すことで区別した。
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