コンゴ自由国
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コンゴ自由国(コンゴじゆうこく、État indépendant du Congo、Kongo-Vrijstaat)は、かつてアフリカのザイール川流域に存在した国である。国と称しているが、実態はベルギー国王レオポルド2世の私領地であった。ベルギーの植民地時代を経て、のちにコンゴ共和国(後のコンゴ民主共和国)として独立を果たした。
- ^ マーク・トウェイン『レオポルド王の独白 彼のコンゴ統治についての自己弁護』p.40
- ^ “ベルギーで元国王像が撤去される 植民地時代の圧政象徴 米黒人暴行死受け”. 毎日新聞 (2020年6月10日). 2020年6月10日閲覧。
- 1 コンゴ自由国とは
- 2 コンゴ自由国の概要
- 3 概要
- 4 脚注
コンゴ自由国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/18 06:26 UTC 版)
コンゴ兵は多民族混成であり、上コンゴの戦士出身者が多かった。その他にザンジバルや西アフリカから連れてこられた者たちもいた。公安軍の任務は「コンゴ自由国を守り、アラブ人の奴隷交易者を倒すことである」と宣伝されたが、実際にはヘンリー・モートン・スタンリーの探検自体がティップ・ティプらアラブ系奴隷交易者の力を借りたものであり、レオポルドはティップから解放の名目で奴隷を購入し、実際には公安軍で4年働かせるかさもなくば出身の村まで誘拐し代わりの子供を連れてこさせた。カトリック教会も奴隷制に近い形で兵士の養成に関わった。公安軍の実際の主要任務はコンゴ住民にファンボと呼ばれたカバの革紐でつくられた鞭を振るってゴム生産と象牙狩りの労働を強要することであった。全てのコンゴ人が50から100の鞭を受け、20を下回ることはなかったといわれ、死者も出た。公安軍は夫を働かせるために女性を人質にし、時折暴行した。多くの村に火がかけられ、多くの虐待の内で有名なのは弾薬費用の証明として死体の手が使われたことだった。1892年から1894年には上コンゴでフランシス・ダニス(Francis Dhanis)の部隊により本来の任務であるアラブ=スワヒリ人奴隷交易者との戦闘も行われた。1895年にはルルアブルクでテテラ族の蜂起が鎮圧され、1897年にはルイ・ナポレオン・シャルタン(fr:Louis Napoléon Chaltin)の部隊がラド飛地(Lado Enclave)を占領した。1897年から1898年にはウヴィラ、1900年にはシンカカザ砦でテテラ族の蜂起が鎮圧された。エドモンド・モレルの告発を受け国際的非難を浴びると、コンゴ自由国はベルギー領コンゴに改められた。
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