コンゴ自由国とは? わかりやすく解説

コンゴ自由国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/03 21:33 UTC 版)

コンゴ独立国
État indépendant du Congo (フランス語)
Onafhankelijke Congostaat (オランダ語)
1885年 - 1908年
国旗 国章
国の標語: Travail et progrès(フランス語)
労働と前進
国歌: Vers l'avenirフランス語版

コンゴ自由国とベルギーの位置
首都 ボーマ(1886年 - 1908年)
国王
1885年 - 1908年 レオポルド2世
総督
1885年 - 1886年 F・W・ド・ウィルソンフランス語版
面積
[要出典] 2,345,000km²
人口
1900年[要出典] 9,000,000人
変遷
成立 1885年7月1日
ベルギーによる併合 1908年11月15日
通貨 コンゴ・フラン
現在  コンゴ民主共和国
コンゴの歴史
コンゴ王国
コンゴ自由国 フランス領コンゴ ポルトガル領
コンゴ
ベルギー領コンゴ フランス領
赤道アフリカ
ポルトガル領
アンゴラ
コンゴ共和国 コンゴ共和国 アンゴラ
人民共和国
コンゴ民主共和国
ザイール共和国 コンゴ人民共和国
コンゴ民主共和国 コンゴ共和国 アンゴラカビンダ州
手を切られたコンゴ人[1]
手を切り落とされるコンゴ人を尻目にコンゴで儲けるレオポルド2世を批判した『パンチ』の風刺画

コンゴ自由国(コンゴじゆうこく、État indépendant du CongoKongo-Vrijstaat)は、かつてアフリカザイール川流域に存在した国である。国と称しているが、実態はベルギー国王レオポルド2世の私領地であった。ベルギーの植民地時代を経て、のちにコンゴ共和国(後のコンゴ民主共和国)として独立を果たした。

概要

ベルギー国王レオポルド2世はスタンリーにザイール川流域を探検させる。国王の支援による探検だったためその成果は国王に帰属し、国王は1882年に「コンゴ国際協会」に委託支配させ、1885年ベルリン会議では公式に国王の私領地になった。

国王の私領となったコンゴ自由国では耕作地も全てが国王の所有となり、住民は象牙ゴムの採集を強制された。規定の量に到達できないと手足を切断するという残虐な刑罰が容赦なく科され、前代未聞の圧制と搾取が行われていた。コンゴ自由国の自由国とは、「住民が自由な国」という意味ではなく、自由貿易の国という意味を当てこすった英語の俗称(Congo Free State)であり、公用語であるフランス語における正式国号はコンゴ独立国であった。

当時は多かれ少なかれ抑圧的な植民地政策が行われていた欧米列強各国からも、人道主義の立場に基づく非難が殺到した。特にイギリス領事に実態調査を行わせている。またジャーナリストのエドモンド・モレルが『赤いゴム』という著作で、手足を切り落とす過酷な刑罰の下でのゴム採集の実情を白日のもとにさらけ出した。

国際社会の非難の声はますます高まり、国王の恣意的な暴政にベルギー政府も黙っていられなくなった。1908年10月、ベルギー政府は植民地憲章を制定し、国王はベルギー政府からの補償金と引き換えにコンゴ自由国を手放すことになった。同年11月、コンゴ自由国はベルギー政府の直轄植民地ベルギー領コンゴになった。これにより統治の実情は多少なりとも改善され、初等教育の導入などが行われた。

コンゴ自由国を圧政により支配したレオポルド2世への批判は、21世紀も続いている。2020年6月、アメリカ合衆国で発生した反人種差別デモがベルギーに波及した際には、アントワープ市内にあったレオポルド2世の像が襲撃を受け、放火された上に塗料が掛けられていたため、市によって撤去されている[2]

脚注

  1. ^ マーク・トウェイン『レオポルド王の独白 彼のコンゴ統治についての自己弁護』p.40
  2. ^ ベルギーで元国王像が撤去される 植民地時代の圧政象徴 米黒人暴行死受け”. 毎日新聞 (2020年6月10日). 2020年6月10日閲覧。

関連項目


コンゴ自由国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/18 06:26 UTC 版)

公安軍 (コンゴ)」の記事における「コンゴ自由国」の解説

コンゴ兵は多民族混成であり、上コンゴ戦士出身者多かったその他にザンジバル西アフリカから連れてこられた者たちもいた。公安軍任務は「コンゴ自由国を守りアラブ人奴隷交易者を倒すことである」と宣伝されたが、実際にヘンリー・モートン・スタンリー探検自体がティップ・ティプらアラブ系奴隷交易者の力を借りたものであり、レオポルドティップから解放名目奴隷購入し実際に公安軍4年働かせるさもなくば出身まで誘拐し代わりの子供を連れてこさせた。カトリック教会奴隷制に近い形で兵士養成に関わった。公安軍実際主要任務コンゴ住民ファンボ呼ばれたカバ革紐つくられた鞭を振るってゴム生産象牙狩り労働強要することであった全てのコンゴ人50から100の鞭を受け、20下回ることはなかったといわれ、死者出た公安軍は夫を働かせるために女性人質にし、時折暴行した多くに火がかけられ多く虐待の内で有名なのは弾薬費用の証明として死体の手使われたことだった。1892年から1894年には上コンゴでフランシス・ダニス(Francis Dhanis)の部隊により本来の任務であるアラブスワヒリ奴隷交易者との戦闘行われた1895年にはルルアブルクテテラ族の蜂起鎮圧され1897年にはルイ・ナポレオン・シャルタン(fr:Louis Napoléon Chaltin)の部隊ラド飛地Lado Enclave)を占領した1897年から1898年にはウヴィラ、1900年にはシンカカザ砦でテテラ族の蜂起鎮圧された。エドモンド・モレル告発を受け国際的非難浴びると、コンゴ自由国はベルギー領コンゴ改められた。

※この「コンゴ自由国」の解説は、「公安軍 (コンゴ)」の解説の一部です。
「コンゴ自由国」を含む「公安軍 (コンゴ)」の記事については、「公安軍 (コンゴ)」の概要を参照ください。

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