コンゴ統治
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「レオポルド2世 (ベルギー王)」の記事における「コンゴ統治」の解説
こうしてつくられたのがレオポルド2世の私領「コンゴ自由国」であった。ベルギー議会は相変わらず植民地支配に関心がなく「コンゴ統治はベルギー国家とは関係なく、レオポルド2世の私的行為として行われているのであるから、ベルギーの国費をコンゴ統治に使ってはならない」という条件のもとにレオポルド2世のコンゴ統治を承認した。 レオポルド2世はベルギー本国では立憲君主として憲法上の縛りがあるが、私領であるコンゴではそのような権力の制限は一切なく、専制君主として君臨した。コンゴ統治を委ねられた直後のレオポルド2世は巨額の私費や国内外の投資家の投資を募ってコンゴの近代化を推進した。ベルギー本国の75倍もの国土があり、かつジャングルや山岳のせいで踏破が困難なコンゴの地にマタディ・レオポルドヴィル鉄道をはじめとする近代的な鉄道網を敷設した。 また、他の列強とも協力の上で要塞を建設し、黒人を捕らえて売却しようと企むアラブ人奴隷商人の取り締まりを強化した。レオポルド2世はこうした活動のために私財のほとんどをつぎ込んでおり、自らの生活も切り詰めなければならないほどだった。 だが、まもなくレオポルド2世は利益の回収を最優先にするようになった。1891年と1892年の勅令によって最も収入が期待できる象牙と天然ゴムを自分の独占事業にし、とりわけ1890年代半ばから急速に需要が高まっていた天然ゴム採取を急がせた。1893年まで250トン足らずだった天然ゴム生産量を1901年には6000トンにまで高めさせた。しかし、それは先住民の過酷な労働の上に成り立っていた。最も重要な資源である天然ゴムにはノルマ制が設けられ、生産量が足りない場合には手足切断などの罰が加えられた。過酷な圧政によってコンゴの人口は1885年にコンゴ自由国が建設された時点(3000万人)と比べて70%減少し、900万人まで減少したといわれる。こうした残虐行為を行っていたのはレオポルド2世の私軍である公安軍だった。この部隊は士官は白人だが、兵士はナイジェリアや西アフリカ諸国の黒人を中心に構成されていた。 イギリス・ローデシア植民地のセシル・ローズが進出してくる懸念から、コンゴ南部のカタンガ進出にも力を入れた。 一方、イギリス植民地省はコンゴ自由国内における残虐行為の報告を集めていた。また、コンゴに滞在する宣教師もそうした報告を『タイムズ』紙をはじめとする新聞に公表するようになり、ヨーロッパ中でレオポルド2世への批判が強まっていった。1903年にはイギリス下院が「コンゴ自由国はベルリン条約に違反して先住民に対して過酷な圧政を行っている」と批判する決議を出している。エドモンド・モレルの『赤いゴム』、マーク・トウェインの『レオポルド王の独白』など、レオポルド2世批判の著作も続々と出版された。 もっともこうした報告には誇張やデマなどの類も多かったという。こうした批判が始まった背景には、イギリスをはじめとした各国政府や資本家がレオポルド2世の中世じみた恣意的な統治を嫌い、より合理的な近代植民地統治に置き換えたがっていたことがある。したがって必ずしもベルギーからコンゴを奪い取ろうと意図されたものではなく、むしろコンゴをレオポルド2世の私領からベルギー国家の植民地に転換させて責任を持った統治をさせる意図があった。 だが、レオポルド2世はこうした批判についてイギリスの陰謀と疑っていた。コンゴ統治にほとんど関心を持たなかったベルギー国民も突然始まったレオポルド2世批判キャンペーンに疑念を持ち「イギリス人はボーア戦争でボーア人から財産を奪い、次はコンゴを狙っている」と批判する者が多かった。 イギリスに付け入る隙を与えないため、レオポルド2世はコンゴ植民地大臣エドモン・ヴァン・エトヴァルド男爵に対して「本当に残虐行為が行われているならば止めなければならない。そうした残虐行為が続くならコンゴ自由国の崩壊を招く」と語り、先住民保護委員会を組織させた。同委員会は調査権に様々な制限が加えられていたため、大きな成果は挙げられなかったが、一応、強制労働の緩和、先住民部族に一定の自治権を認めるなどの改革が行われるきっかけにはなった。 それでも収まらない国際的批判に耐えかねたベルギー政府は、レオポルド2世がコンゴの状況を改善できないなら、コンゴを国王の私領からベルギー国家の植民地へ転換させるべきであると主張し、1906年に議会にそれを諮った。一方、レオポルド2世は「(コンゴ自由国は)私の個人的な努力の結晶である。(略)コンゴ併合を要求する者たちは支配体制を変えることで今進行している事業を妨害し、その残骸から利益を漁ろうとしている者たちである」と批判し、コンゴをベルギー国家に譲ることを拒否した。 しかし、ベルギー議会はレオポルド2世にコンゴを手放すよう決議した。イギリスやアメリカなど国外からの批判も相変わらず激しく、レオポルド2世もついにコンゴ個人領有を諦めた。1908年10月18日にベルギー国家にコンゴを譲渡する旨の文書に署名している。 この後、ベルギー議会の決議によって手首切断などの中世まがいの残虐刑は禁止され、近代的植民地統治が行われるようになり、レオポルド2世を介さずに資本家に直接利益が入るようになった。強制労働は温存されたものの、他国の植民地支配と比して特別に異質なものではなくなっていった。 レオポルド2世による私的統治やその後のベルギー政府による植民地統治によって整備されたコンゴ鉄道網 手を切り落とされたコンゴ人たち レオポルド2世に締めあげられるコンゴ人を風刺した『パンチ誌』の絵
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