コンゴ統治とは? わかりやすく解説

コンゴ統治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/21 03:26 UTC 版)

レオポルド2世 (ベルギー王)」の記事における「コンゴ統治」の解説

こうしてつくられたのがレオポルド2世私領コンゴ自由国であったベルギー議会は相変わらず植民地支配関心がなく「コンゴ統治はベルギー国家とは関係なく、レオポルド2世私的行為として行われているのであるから、ベルギー国費をコンゴ統治に使ってならない」という条件のもとにレオポルド2世のコンゴ統治を承認したレオポルド2世ベルギー本国では立憲君主として憲法上の縛りがあるが、私領であるコンゴではそのような権力制限一切なく、専制君主として君臨した。コンゴ統治を委ねられ直後レオポルド2世巨額私費国内外投資家投資募ってコンゴ近代化推進したベルギー本国75倍もの国土あり、かジャングル山岳のせいで踏破困難なコンゴの地にマタディ・レオポルドヴィル鉄道はじめとする近代的な鉄道網敷設したまた、他の列強とも協力の上要塞建設し黒人捕らえて売却しようと企むアラブ人奴隷商人取り締まり強化したレオポルド2世はこうした活動のために私財のほとんどをつぎ込んでおり、自らの生活も切り詰めなければならないほどだった。 だが、まもなくレオポルド2世利益回収最優先にするようになった1891年1892年勅令によって最も収入期待できる象牙天然ゴム自分独占事業にし、とりわけ1890年代半ばから急速に需要高まっていた天然ゴム採取急がせた1893年まで250トン足らずだった天然ゴム生産量1901年には6000トンにまで高めさせた。しかし、それは先住民過酷な労働の上成り立っていた。最も重要な資源である天然ゴムにはノルマ制設けられ生産量足りない場合には手足切断などの罰が加えられた。過酷な圧政によってコンゴ人口1885年コンゴ自由国建設され時点3000万人)と比べて70%減少し900万人まで減少したといわれるこうした残虐行為行っていたのはレオポルド2世私軍である公安軍だった。この部隊士官白人だが、兵士ナイジェリア西アフリカ諸国黒人中心に構成されていた。 イギリス・ローデシア植民地セシル・ローズ進出してくる懸念から、コンゴ南部カタンガ進出にも力を入れた一方イギリス植民地省はコンゴ自由国内における残虐行為報告集めていた。また、コンゴ滞在する宣教師そうした報告を『タイムズ』紙をはじめとする新聞公表するようになり、ヨーロッパ中でレオポルド2世への批判強まっていった。1903年にはイギリス下院が「コンゴ自由国ベルリン条約違反して先住民に対して過酷な圧政行っている」と批判する決議出している。エドモンド・モレルの『赤いゴム』、マーク・トウェインの『レオポルド王独白』など、レオポルド2世批判著作続々出版された。 もっともこうした報告には誇張デマなどの類も多かったという。こうした批判始まった背景には、イギリスをはじめとした各国政府資本家レオポルド2世中世じみた恣意的な統治を嫌い、より合理的な近代植民地統治置き換えたがっていたことがある。したがって必ずしもベルギーからコンゴ奪い取ろう意図されたものではなく、むしろコンゴレオポルド2世私領からベルギー国家植民地転換させて責任持った統治をさせる意図があった。 だが、レオポルド2世はこうした批判についてイギリス陰謀疑っていた。コンゴ統治にほとんど関心を持たなかったベルギー国民も突然始まったレオポルド2世批判キャンペーン疑念持ちイギリス人ボーア戦争ボーア人から財産奪い、次はコンゴ狙っている」と批判する者が多かったイギリスに付け入る隙を与えないため、レオポルド2世コンゴ植民地大臣エドモン・ヴァン・エトヴァルド男爵に対して本当に残虐行為が行われているならば止めなければならないそうした残虐行為が続くならコンゴ自由国崩壊を招く」と語り先住民保護委員会組織させた。同委員会調査権様々な制限加えられていたため、大きな成果挙げられなかったが、一応、強制労働緩和先住民部族一定の自治権認めるなどの改革が行われるきっかけはなった。 それでも収まらない国際的批判に耐えかねたベルギー政府は、レオポルド2世コンゴ状況改善できないなら、コンゴ国王私領からベルギー国家植民地転換させるべきであると主張し1906年議会にそれを諮った。一方レオポルド2世は「(コンゴ自由国は)私の個人的な努力結晶である。(略)コンゴ併合要求する者たちは支配体制変えることで今進行している事業妨害し、その残骸から利益を漁ろうとしている者たちである」と批判しコンゴベルギー国家に譲ることを拒否した。 しかし、ベルギー議会レオポルド2世コンゴ手放すよう決議したイギリスアメリカなど国外からの批判も相変わらず激しくレオポルド2世もついにコンゴ個人領有諦めた1908年10月18日ベルギー国家コンゴ譲渡する旨の文書署名している。 この後ベルギー議会決議によって手首切断などの中世まがいの残虐刑は禁止され近代的植民地統治が行われるようになり、レオポルド2世介さず資本家直接利益が入るようになった強制労働温存されたものの、他国植民地支配比して特別に異質なものではなくなっていったレオポルド2世による私的統治その後ベルギー政府による植民地統治によって整備されコンゴ鉄道網 手を切り落とされコンゴ人たち レオポルド2世締めあげられるコンゴ人風刺したパンチ誌』の絵

※この「コンゴ統治」の解説は、「レオポルド2世 (ベルギー王)」の解説の一部です。
「コンゴ統治」を含む「レオポルド2世 (ベルギー王)」の記事については、「レオポルド2世 (ベルギー王)」の概要を参照ください。

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