台頭するナショナリズム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 06:01 UTC 版)
「ギリシャ独立戦争」の記事における「台頭するナショナリズム」の解説
「セルビア蜂起」も参照 左側の人物が第1次セルビア蜂起の指導者カラジョルジェ・ペトロヴィチ右の人物が第2次セルビア蜂起の指導者ミロシュ・オブレノヴィチ 18世紀末、ロシアの女帝エカチェリーナ2世は黒海、バルカン半島への勢力拡大を図るだけではなく、オスマン帝国を廃した上でコンスタンティノープルを首都としてビザンツ帝国を再興、孫にコンスタンティンと名付けた上で皇帝に即位させて「バルカン帝国」を築くことを考えていた。1763年以降、ロシアの使者はバルカン半島を駆け巡り、ギリシャ人有力者、高位聖職者、クレフテスやアルマトリらと関係を結んで彼らを蜂起させようとした。 1789年、フランス革命が発生するとナショナリズムがヨーロッパを覆い、さらにドイツ・ロマン主義の台頭で各民族の母語の重要性が叫ばれた。これは西欧に移住していたバルカン諸民族の商人らによってバルカン半島へ持ち込まれたが、その結果、発生したのがセルビア蜂起である。 1804年に始まったセルビア蜂起は当初こそダヒヤらによるクネズ、聖職者、教師などのセルビア人の指導層が大量虐殺されたことで、ダヒヤ及びイェニチェリに対する反感から蜂起したもので、民族主義に基づくものではなかったが、ヨーロッパ列強らがこれに関与することで民族解放色を強めていった。二次に渡って行われたセルビア蜂起は結果的に自治を獲得、後にセルビア公国の成立へとつながる。そしてこの蜂起はオスマン帝国が弱体化していることをまざまざを見せつけ、ギリシャでは作者不詳であるが『ギリシャの県知事政治(ノマルヒア)』が著され、このことを指摘していた 。 一方でギリシャでも1770年2月、ペロポネソス半島においてギリシャ人名望家を中心に蜂起が発生した。これはオスマン帝国のアヤーンによってすぐに鎮圧されたが、この蜂起は当時、ロシアの エカチェリーナ2世 が南下政策を取っており、ロシアとトルコの間で露土戦争(1768年 - 1774年)が発生、アレクシオス・オルロフ率いるロシア艦隊が地中海に侵入したことでエーゲ海でも反乱が発生、テオドロス・オルロフ率いる部隊が接近したことから、これに過剰な期待を寄せてしまったために発生した蜂起であった。このため、ペロポネソス半島が後にギリシャ独立戦争における中心拠点と化したことからこの蜂起が独立を目指したものであった可能性も指摘されている。 そして、この反乱は有力者や高位聖職者らが指導したため、外国勢力に煽動された蜂起であったにもかかわらず、より大掛かりで民族的革命の先駆けであることを示し、社会の様々な集団が彼らの態度、方向性を明らかにして民族的運動の方向性を様々な集団なりに整備させることになった。 この事件以降、東方問題が生じていた中での列強三国(ロシア、イギリス、フランス)らの覇権争い、イピロスのアヤーンで事実上の支配者であったアリー・パシャの台頭によるオスマン帝国の弱体化などの理由によりギリシャ独立が決して実現不可能な夢ではなくなってきていた。そして、フランス革命が生じたことで地中海からフランス商人らが一掃されたため、地中海はギリシャ商人らの活動が中心となっていたが、これは「トルコの軛」からギリシャ人らが離れて活動することを可能にした。そしてこの活動はギリシャ人らに独立の気運を促すひとつの要因となっていた。 ナポレオン戦争の最中の1797年、カンポフォルミオ条約の締結でイオニア諸島がフランスによって占領されるとナポレオンはフランス保護下でギリシャを独立させることを考えた。そのため、ナポレオンのエジプト遠征中には「東方の狩人たち」という部隊が編成され、さらに1807年、「アルバニア連隊」が結成されるが、この中には後の独立戦争の英雄たちが多く所属した。一方で1798年にはギリシャ人、アルバニア人らによる蜂起委員会が結成され、アリー・パシャやオスマン帝国へ反抗する住民を扇動するための密使がバルカン半島へ派遣された。 18世紀以降、フランス革命における革命の政治思想、社会思想の影響は商人やナポレオンに仕えていたクレフテスやアルマトリにも広がり、コザニ、ケア、サモスでは地方自治範囲内ではあるが、共和主義的党派が組まれ、共和主義者らは自らを「カルマニョール」と称した。そして進歩主義者と保守主義者の間で闘争が行われ、同業組合や協同組合内での頭らと職人、大株主と小株主の間で、手工業者団体と大手卸業者の間などでも社会的闘争が行われるようになった。 そして、さらに1800年、ギリシャ人国家であるイオニア七島連邦国が列強たちの妥協の産物とはいえ、ギリシャ人らが営む国として創設された。このイオニア七島連邦国は1807年、ティルジットの和約がロシア、フランス間で結ばれイオニア諸島が再びフランスの支配下になったため体制変更され、1815年にはイギリス支配下のイオニア諸島合衆国となって滅亡したが、一時は憲法の制定・外交などの権利が与えられたため、ギリシャ人らが独立へ向けて走り出す象徴となった(再び行われた露土戦争 (1806年-1812年)の結果、イギリスの保護下ではあったが、法的な独立国としてイオニア諸島合衆国が創設され、オスマン帝国支配下ではないギリシャ地域が出現した)。しかし、ギリシャ独立の第一歩と考えられていたイオニア諸島の完全な独立は露と消えた。 フランスの影響を受けた農民や市民階級、ロシアやフランスに好意を抱いていた貴族階級のごく一部などはイギリスの護民官に敵意を持っており、1817年、1819年にサンタ・マブラとザキントスで民族主義的様相を帯びた農民一揆を起こした。しかし、これら民族主義的活動は指導者たちが望む内容とは全く相反しており、高位聖職者、ファナリオティス、長老の大部分は疑問をいだいており、時には敵意を持つことさえあった。 また、一方でアリー・パシャはイピロス、南アルバニア、西マケドニア、テッサリア、ギリシャ本土西部、ペロポネソス半島で勢力を広げており、列強の対立を利用してオスマン帝国から独立してアルバニア・ギリシャ国を建設することを目論んでいた。アリー・パシャはクレフテスと戦いを交わす一方でトルコ人らが独占していた行政上の地位をギリシャ人らに委ねており、また、軍隊にも受け入れていた。そのため、アリー・パシャの宮廷はギリシャ人らにとって政治、軍事について学ぶ学校と化していた。
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