ギリシャ各地で立ち上がる炎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:00 UTC 版)
「ギリシャ独立戦争」の記事における「ギリシャ各地で立ち上がる炎」の解説
しかし、6月23日にはペロポネソス半島南部の都市カラマタを反乱軍が掌握した他、パトラ、マケドニア、クレタ島、キプロスなどでも反乱の火の手があがった。オスマン帝国の当局は反乱を全く予期しておらず、ペロポネソス半島を中心とした地域が反乱軍の支配下に入ったが、ギリシャ人全体が蜂起したわけではなかった。しかし3月中旬、カラヴリタの戦いで火蓋が切られ、さらに3月21日にはマニでコロコトロニス主導の元、武装蜂起が開始され、23日、カラマタを占領、「メッセニア議会(民会)」を開設した。そして1821年3月25日、パトラ府主教パレオン・パトロン・ゲルマノス (en) が聖ラヴラ修道院で十字架を掲げ『自由か、さもなくば死か』と叫び、ギリシャ人兵士らに向かって戦いの宣誓を行って「革命政府(ディレクトリア)」を開設したが、この3月25日はギリシャ独立記念日として今なお祝われている。そして3月28日、メッセニアの評議会はギリシャが独立へ向けて革命を開始したと宣言、1821年4月2日、ペロポネソス半島で燃え上がった炎は中央ギリシャ東部へ飛び火、4月中旬にはプサラ島、イドラ島、5月にはテッサリア、6月にはクレタ島で蜂起が開始された。 その一方でオスマン帝国スルタン、マフムト2世はこれに激怒、ムスリムらに聖戦(ジハード)の準備をするよう命令したため、ムスリムらはイスタンブールやその他の街のキリスト教徒らを虐殺や略奪するなどした。そして、オスマン政府はファナリオティス高官、正教会の主教らを処刑、これにはコンスタンティノープル総主教、グリゴリオス5世も含まれていた。さらにこの虐殺はペロポネソス半島にまで至ったため、当初、蜂起に参加することに躊躇していたギリシャ人らもこれに参加するようになった。
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