旗揚げまでの経緯
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「JWP女子プロレス」の記事における「旗揚げまでの経緯」の解説
1992年1月28日、ジャパン女子プロレス解散後に同団体の子会社「JWPプロジェクト」を母体に設立。選手会の分裂により最終所属12選手のうちJWPに加わったのは7選手で、それにジャパン女子最終興行で一旦引退を表明したデビル雅美も加わった。さらに旗揚げ前に第1回「オーディション」を行って合格者の中から桑原三佳と小林美津恵が旗揚げメンバーになった。ジャパン女子でリングアナウンサーだった山本雅俊と同じく広報だった篠崎清の共同代表と言う形を採っていた。事務所は東京都台東区上野、道場は埼玉県三郷市に設置。
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旗揚げまでの経緯
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設立の裏には当時、新日本プロレスのアントニオ猪木が起こした事業「アントン・ハイセル」の失敗により莫大な負債を抱えて、新日本がその補填をすることに対して新間寿と反猪木派社員が反目。新間が猪木の新たな受け皿として用意したのがユニバーサル・レスリング連盟(UWF)である。前田日明によると、クーデター事件により新たな資金源が必要になった猪木が、フジテレビと契約するために作ったという。一時はクーデター派によって新間は新日本プロレスの専務取締役を解任されて同時に猪木も新日本の代表取締役社長を一時的に解任されたが、「猪木なしでの中継放送はありえない」というテレビ朝日の介入により、クーデターは未遂に終わる。 この経緯から、設立前には猪木を含めた新日本所属選手の参加が噂され、旗揚げ戦のポスターにも当時の新日本主力選手や主力外国人選手の写真が載せられたが(「私はすでに数十人のレスラーを確保した」というコピーまで刷り込まれた)、結果としては前田を始め、当時の新日本で主力・エース級でない選手を中心に参加にするにとどまった。前田は「猪木さんが『俺も後から行くから先に行ってくれ』と言われたので移籍した」と発言している。 外国人選手に関しては、表立ってはいなかったがジャイアント馬場のルートでテリー・ファンクが斡旋の窓口となっていた(4月開幕の旗揚げシリーズには、テリーが主戦場としていたテキサス州サンアントニオのサウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリングからボブ・スウィータンとスコット・ケーシー、テネシー州メンフィスのCWAからダッチ・マンテルが来日)。新間は当初、自身が会長を務めていたWWFをUWFの外国人供給ルートとして考えていたが、当時のWWFは新日本プロレスとの業務提携契約が5月末まで残っており、4月の旗揚げシリーズには別ルートから外国人選手を招聘する必要があったためである。WWFのビンス・マクマホン・シニアは、新日本プロレスとの契約終了後は新間への協力を約束しており、そこで新間は、WWFとの契約締結までの外国人選手の斡旋を馬場に頼んだ。マーク・ルーインやカリプス・ハリケーンといった全日本プロレスへの来日経験者がUWFに登場したのはこのためである。6月に予定されていた旗揚げシリーズ第2弾は外国人勢が強化され、馬場のNWAルートからキングコング・バンディ、トミー・リッチ、ジャイアント・キマラなどが来日することになっていた。その見返りとして馬場は、ハルク・ホーガンやアンドレ・ザ・ジャイアントなど、WWFのトップレスラーの全日本プロレス参戦を要望していたという。 新間の退陣後はWWFとの業務提携も立ち消えとなり、ラッシャー木村、剛竜馬、マッハ隼人をブッカーに、カナダ沿海州のアトランティック・グランプリ・レスリングやメキシコのEMLLからの招聘ルートを独自に開拓。カナダからはフレンチ・マーテル、レオ・バーク、ザ・UFO、スウィート・ダディ・シキ、キューバン・アサシンなどのベテランのほか、ダニー・クロファットもフィル・ラファイアーの名義で第1次UWFに初来日している。
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旗揚げまでの経緯
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「みちのくプロレス」の記事における「旗揚げまでの経緯」の解説
1992年10月1日、ユニバーサル・プロレスリングを退団したザ・グレート・サスケが東北地方でのプロレス振興を目的に岩手県盛岡市に設立。サスケがユニバーサルを退団した背景には、ユニバーサルからまったくギャラが支払われなかったという事情があり、ユニバーサルの代表である新間寿恒には「ユニバーサルの東北支部として地方大会プロモートを目的としたい」という話をしていたが、実質的には採算を見込んだ動きであった(サスケはユニバーサル所属選手一人一人に個人的に声を掛けて上記の経営プランを明かした上で勧誘していた)。 11月27日、岩手産業文化センターでプレ旗揚げ戦を開催。 1993年1月、グラン浜田を除くユニバーサル所属選手全員が、みちのくプロレスに移籍。
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旗揚げまでの経緯
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「ユニバーサル・プロレスリング」の記事における「旗揚げまでの経緯」の解説
元新日本プロレス専務取締役兼営業本部長で、UWFの設立にも関わった新間寿は、元ジャパンプロレス代表取締役副会長の大塚直樹やジャパン女子プロレス代表取締役社長の持丸常吉らと共に、格闘技連合(かくとうぎれんごう)の設立を計画。ジャパン女子でコーチを務めていたグラン浜田と大仁田厚を手駒として、ジャパン女子を母体にプロレスと空手などを混合した格闘技団体を構想していた。 ジャパン女子の混合団体化は、所属選手とファンからの反対で頓挫。新間らは、フリーとして活動を再開していた大仁田が設立したFMWを支援する方向へ方針転換。ところが蓋を開けてみれば、FMWはマーシャルアーツを称していたものの、デスマッチ志向が強かった事や様々なハプニングが起こり、新間らが目指していた格闘技連合という方向性から大きく逸脱していたことで撤退を決意。当時は広告代理店に勤務していた新間の息子である新間寿恒と共に、子飼いであった浜田を所属選手とする形で、メキシコの流れを組むルチャリブレ団体の設立を計画していた。
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旗揚げまでの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:40 UTC 版)
1971年12月、アントニオ猪木が日本プロレスの経営改善を下にクーデターを画策したとして、日本プロレス選手会を除名され日本プロレスを永久追放された(詳しくは「密告事件」を参照)。その余波が、日本プロレスのテレビ中継に波及することとなった。当時は日本テレビとNETテレビ(現:テレビ朝日)の2局放映体制であった(詳しくは「BI砲の時代」を参照)。NETの看板選手であった猪木を日本プロレスの内部事情で失ったことで、NETはこれまで日本テレビとの関係からNETの中継に出場できなかったジャイアント馬場の出場を強硬に要求し、ついに日本プロレスの幹部は日本テレビとの取り決めを破り、馬場のNETテレビの中継への出場を解禁した。このため日本テレビは、「契約不履行」を理由に日本プロレス中継の打ち切りを決定した。極秘裏に報復手段に近い形で、日本テレビと関係が近かった馬場に接触して独立を促す。日本テレビから「旗揚げに対しての資金は全て日本テレビが負担する」「放映権料も最大限用意する」「馬場がいる限り、プロレス人気が下火になっても放送は打ち切らない」等の好条件が提示され、それを受けて、馬場もまた独立へ向けて準備を進める形となった。 1972年7月29日、馬場は日本プロレスを退団し、プロレス新団体を設立することを表明する。日本テレビのバックアップを受ける形で渡米しサーキットを行い、その上でドリー・ファンク・シニア、フリッツ・フォン・エリック、ブルーノ・サンマルチノなどの有力者に接触して協力を要請し、豪華外国人選手の招聘に成功する。日陣営も「親馬場派」ともいえる大熊元司、マシオ駒、サムソン・クツワダらを確保。この中でも日本プロレスの若手選手であった百田光雄、取締役兼リングアナウンサーとして百田義浩に加え、役員として力道山未亡人の田中敬子も旗揚げに参加したことで「力道山(百田)家のお墨付き」を得ることにも成功。日本テレビや百田家の後ろ盾、外国人選手の招聘ルート開拓に成功した全日本プロレスに対し、日本プロレスは過去に東京プロレス、国際プロレス、新日本プロレスに行ったような外国人レスラーの招聘妨害や会場使用を出来なくするような妨害工作を行う事が出来ず、興業の目玉である馬場を失った日本プロレスは一気に弱体化する事になる。 さらに、手薄な日本人陣営をカバーするため国際プロレス代表取締役社長の吉原功との会談でサンダー杉山を獲得、当時若手選手であったデビル紫、鶴見五郎らが参戦して国際プロレスとの協調路線をしばらく維持する。馬場ら全日本勢も協力の見返りとして、しばしば国際プロレスの興行に参戦した。 馬場は将来の投資として、旗揚げ直後にミュンヘンオリンピックレスリング日本代表であった鶴田友美(リングネーム:ジャンボ鶴田)の獲得に成功する。鶴田は、渡米修行から1年後の国内デビュー以降タイトルに頻繁に挑戦させるなど、将来のエース候補として英才教育を受けさせた。この事態にザ・デストロイヤーが手薄な日本人陣営に助っ人として加わり、1979年まで約6年半にわたり定着参戦していた。馬場に次ぐ看板選手として初期の全日本の興行活動に貢献した。 1973年4月、日本プロレスが崩壊すると、最後まで日本プロレスに残留した大木金太郎ら9名の日本プロレス残党は「力道山家預かり」となることを発表する。その過程で、日本テレビや力道山家の意向などもあり大木ら9選手は全日本へ合流する形となったが、馬場は当初から大木らの受け入れにはかなり難色を示していたとされている。そのため、馬場はマッチメイクなどで「旗揚げからの所属(子飼い)組」と「日本プロレスからの合流組」との間で扱いに格差を付けていた。この扱いに対して上田馬之助と松岡巌鉄が反発し10月9日に退団、次いで、大木も1974年1月のシリーズを無断欠場して全日本から一時撤退した。
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旗揚げまでの経緯
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「カンコンキンシアター」の記事における「旗揚げまでの経緯」の解説
関根は1984年6月に渋谷のスタジオDUGで「芸能生活9周年記念」と銘打って、初の座長公演『回転海老家族』を行う(2日間4公演)。この企画のきっかけは1982年、当時小さな劇団に所属していたラッキィ池田が、友人の鈴木晋介と共に観に行ったイベントで、小堺一機と関根(当時の芸名はラビット関根)が演じるコントに遭遇し、特に関根の不条理なギャグに惹かれるものを感じた2人が、そのイベントに出演していた友人のダンサー・五十嵐薫子を介して関根とコンタクトを取ったことによる。 関根原案、鈴木演出の『回転海老家族』にはラッキィ(「かにめ新一」名義)と鈴木の他、剛州など後の『カンコンキンシアター』旗揚げメンバーの何人かも参加しており、内容面では「誘拐された家族を助けに行く」という現在の舞台に比べるときちんとしたストーリー仕立てにはなっているものの、既にナンセンスコメディを目指すというスタイルは確立されていた。 このころから関根はTV出演の増加で忙しくなっていったこともあり、『回転海老家族』再演の機会はなかったものの、彼は舞台の面白さに目覚めるのと同時に、自身の目指す「くだらねぇ」ナンセンスコメディーが一般にも受け入れられるという手ごたえを感じていた。また1985年の夏から、関根は小堺が始めた公演『小堺クンのおすましでSHOW』に共に出演するようになった。そしてショウビジネスを志向する自らの世界観を舞台公演として実現した小堺と同じように、関根も自身の目指す世界観を舞台で披露する機会を作ろうと考えるようになる。 1989年、バブル全盛期の様々な企業による文化活動への出資、いわゆるメセナが盛んに行われていた頃に、当時関根が出演していたラジオ番組『TOKYOベストヒット』(ニッポン放送)を通じて、とある電機メーカーが関根にイベントのための出資話を持ちかけてきた。関根は仕事で改めて接点を持つようになったラッキィや、関根との再演の機会をラッキィと共に探っていた鈴木と語らい、剛州、更に小堺の知己であったルー大柴らも加えて劇団の旗揚げを決断する。 しかし、その後電機メーカーからの出資が中止となり、企画が頓挫しかけるトラブルに見舞われた。最終的にはスポンサー無しでの旗揚げに踏みきり、1989年6月3日に浅草常盤座で記念すべき『カンコンキンシアター』の第1回公演が上演された。この公演は、出資される予定だった500万円がそのまま赤字となってしまったが、上演内容は観客からの想像以上の好評を得た。関根をはじめとする団員らも楽しさを実感したことで再演することになり、以来長年にわたる公演となった。
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旗揚げまでの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/13 14:08 UTC 版)
太平洋戦争後、柔道はGHQによって日本の民主化推進及び軍国主義払拭との観点から禁止となり、学校教育からも排除されるなど逼塞状況にあった。講道館はそうした状況に対し、1949年(昭和24年)5月に全日本柔道連盟を設立、同年10月には日本体育協会に加盟して国民体育大会に参加、プロとアマの区別を明確に規定する、など柔道の体育化、スポーツ化を志向して学校教育復帰の道をめざし、1950年(昭和25年)には新制中学校の選択科目に柔道が採用されるようになった。 こうした動きとは逆に武道としての柔道の復興、及び、生活に困窮していた柔道家の生活基盤を構築することを志向する柔道家の牛島辰熊は柔道の興行化、プロ化を企画し、中心となって動き出した。 1950年(昭和25年)3月2日、国際柔道協会の結成式が開かれた。飯塚国三郎十段を顧問、会長に杉浦和介、理事長に森岡秀剛、理事に牛島辰熊や寺山幸一という布陣であった。またスポンサーとして高野建設(のちの前田道路)社長の高野政造(のちに会長)などがいた。参加選手は牛島の弟子であり、牛島が直接口説いた1949年全日本柔道選手権者の木村政彦を始め、山口利夫、遠藤幸吉、出口雄一、高木清晴、坂部保幸ら柔道有段者計22名(のち4人が脱退し18人)であった。 同年4月16日、東京の芝スポーツセンターで旗揚げ戦が行われた。決勝の試合は木村と山口の対戦となり、木村が山口を崩上四方固で抑え込み、初代全日本プロ柔道選手権のタイトルは木村のものとなった。木村には内閣総理大臣賞が贈られた。講道館館長の嘉納履正も観戦に訪れ、機関誌『柔道』にはコメントを載せた。ライターの増田俊也はこれを「奨励」と表現している。
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