密告事件
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「上田馬之助 (プロレスラー)」の記事における「密告事件」の解説
力道山が亡くなった後の日本プロレス末期に、不透明な経理に不満を抱いていた馬場・猪木ら選手会一同は、一部幹部の退陣を要求しようと密かに画策していた。もし要求が受け入れられない場合は、選手一同が退団するという嘆願書に全員がサインをしていたという。上田は「猪木が日本プロレスを乗っ取ろうとしている」と幹部に密告していた。 猪木と腹心の仲でありサイドビジネスの手伝いもしていた経理担当の某氏が、不透明な小切手を切ったり、猪木を社長に祭り上げて日本プロレスの経営権を握ろうと画策しているかのような動きを見せたため、このことに気付き危機感を持った上田が馬場に相談したのが発端であったともいわれている。 当時の日本プロレスは暴力団との関係が取り沙汰されたり(ただし当時の「興行」はプロレスに限らず良くも悪くも現在の価値観で言う暴力団の影響を免れることは有り得なかった)、ドンブリ勘定の資金管理など闇の部分が存在したのは間違いない。猪木自身は自著である『アントニオ猪木自伝』の中でこの件について触れ「経営陣の不正を正したかったことに嘘はない」としている。また、馬場の自伝においては、猪木の行動は日本プロレス経営改善の名を借りた乗っ取り計画だったとされ、これに関係していた上田を馬場が詰問したら「上田が全部しゃべったんです」との記述がある。雑誌ゴングの元編集長竹内宏介(馬場の側近としても有名だった)も「馬場が上田を詰問・上田が真相を告白・馬場が幹部に報告」という経緯で著書を書いている。 ユセフ・トルコも自著での猪木の弟、猪木啓介との対談で「いや、あれを上層部にいったのは間違いなく上田」と語っており、元日本プロレスの経理部長である三澤正和も「実際の会議で猪木さんが『馬之助、テメェ、よくもばらしやがったな』と言っていた」と証言している。 ただ2007年1月から5月にかけて東京スポーツにて連載されていた「上田馬之助 金狼の遺言」において、上田は「実はあの事件で最初に裏切り首脳陣に密告を行ったのは馬場であるが、当時の社内の状況ではとてもそのことを言える状態ではなく、自分が罪を被らざるを得なかった」「証拠となるメモも残っている」と語っている(但しこの「メモ」が公開される事は終に無く、また「メモ」も法律上能力の証拠能力を有しているかは不明である)。 猪木の日本プロレス除名並びに新日本プロレス旗揚げまでの経過は以下の通りである。 1971年11月4日 - 猪木と上田が面談。その席で上田は、「日本プロレス幹部の横暴には目に余るものがある。ここは手を握って改革してほしい」と懇願し、猪木は承諾。 11月5日 - 上田が「内密で話したいことがある」という理由で馬場を呼び出す。猪木も同席。 11月18日 - 猪木と上田が馬場を京王プラザホテルに呼び出し、馬場に改革の具体案を開示した。内容は、「臨時役員会を開催し、芳の里淳三、吉村道明、遠藤幸吉の役員退任を要求する」という内容であった。 11月19日 - 『'71ワールド・チャンピオン・シリーズ』が全17戦の日程で開幕。後楽園ホールでの開幕戦で、試合開始前に猪木と上田が改革の概要を説明した。大木金太郎と戸口正徳以外の17人の選手が改革案に署名。 11月26日 - 臨時役員会が開かれる。当日の夜に、芳の里、吉村、グレート小鹿の3人は新宿のスナックに出かけた。上田は、3人がいたスナックに「シリーズ終了後に猪木が会社の定款を変えて社長になることを企んでいる」と電話を入れた。状況がつかめなかった芳の里は上田をスナックに呼び出し、芳の里は上田に対して「これは猪木一人の計画か」「お前も仲間か」「じゃあ馬場は?」などと問いただすと、上田は「最初は仲間だったが、大変なことになると思い電話した」「馬場さんも知っている」「馬場さんも猪木さんと一緒に行くはずだ」などと回答して上田はスナックを後にした。馬場も上田と入れ変わるように同じスナックに呼び出され、芳の里は馬場にこのことを問いただし、馬場は「私は一切知りません」の一点張りだった。その後、幹部は猪木の動きを警戒するようになる。 11月28日 - 臨時役員会を開催。役員でもある馬場と猪木は選手が署名した連判状を開示し(猪木は出席せずに某氏が出席)、「日本プロレスの経理明朗化と健全な経営」について要求した。 11月29日 - 横浜文化体育館で遠藤が上田に接触し、遠藤は上田から猪木の行動を事情聴取すると共に、上田も新宿のスナックの件を遠藤に説明。同時に遠藤は猪木の行動阻止作戦を開始。 12月1日 - 馬場が京都駅で上田を呼び出し、上田から猪木の動向を聴取。名古屋への移動中の東海道新幹線の車内でも、隣の席に座らせて状況聴取を行う(馬場は他の選手と違う車両の座席を予約していた)。その席で上田は「猪木が新会社の社長になり、自分も印鑑証明を用意するよう言われた」と馬場に説明し、馬場も「話が違う。完全なクーデターだ」と返答した。馬場は名古屋駅で下車せず、芳の里に猪木の動向を報告するためそのまま帰京し、報告後当日試合がある愛知県体育館へ直行。 12月2日から3日 - 上田は浜松市体育館大会と山形県体育館大会を欠場し、同時に日本プロレスの顧問弁護士と共に猪木の行動に関する告発状を作成する。山形大会で芳の里は馬場と面談。この時点で猪木の計画は選手会に筒抜けとなる。同時に山形大会当日に、馬場が選手会長並びに取締役を辞任し、猪木も取締役を辞任。 12月5日 - 巡業先の仙台からの帰京後に、緊急選手会を開催。その席で猪木は自分が行ってきた行動について謝罪した。しかし、新選手会長となった大木は翌12月6日に猪木の処分を議決すると発表。 12月6日 - 茨城県立スポーツセンター体育館へ移動する直前に、選手会が「猪木を選手会から除名したので、水戸大会以降、猪木を出場させないでほしい。出場させるのであれば、全選手が水戸大会を欠場する」と芳の里に連判状を提出。但し、山本小鉄は署名しなかった。芳の里は、「プロモーターに迷惑がかかる。シリーズ終了後に猪木の処分を決定する」と返答した。猪木は山本から、猪木の除名決議が行われることを聞かされる。当日は水戸に宿泊予定だったが、予定を変更して当日に帰京。 12月7日 - 札幌中島スポーツセンター大会のため選手は札幌へ移動したが、猪木は山本、ユセフ・トルコと共に航空便や宿泊先を別にするなどの行動を取る。 12月8日 - 札幌から帰京後に猪木が入院し、残る日程を欠場。 12月9日 - 大阪府立体育館にて、坂口征二が猪木に代わって、ドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦。カード変更に伴いチケット払い戻しの処置が取られたが、払い戻しを行った観客は少数であった。 12月10日 -この時点で猪木の除名処分が社内決定しており、12月13日の記者会見に向けて準備が進む。 12月11日 - 猪木は山本を練馬区のボウリング場に呼び出し、その席で山本は猪木との共闘を宣言する。 12月12日 - 『'71ワールド・チャンピオン・シリーズ』の全日程終了。 12月13日 - 代官山にあった日本プロレス興業で猪木除名に関する記者会見が開かれる。芳の里社長、大木選手会長、平井義一日本プロレス協会会長は会見で、「猪木を日本プロレスから除名・追放する。理由は日本プロレスを乗っ取ろうと計画し、会社の重要書類を無断で持ち出した」「馬場の責任は問わない」と会見した。選手会全員の署名捺印による猪木除名の決議書が提出されたことを明らかにした。これに伴い猪木は日本プロレスから除名された。記者会見後、大木、坂口、小鹿などの選手は祝杯を上げていたという(馬場と上田は欠席していた)。 12月14日 - 猪木が京王プラザホテルで反論会見を開き、会見で猪木は、日本プロレスに対する法廷闘争も辞さないことを示唆した。日本プロレスも同日に、「日本プロレスは日本プロレスを追放するメンバーを他にも決めていた」などと会見した。同時に藤波辰巳、木戸修が日本プロレスを退団。ユセフ・トルコは日本プロレスから謹慎処分を受ける(トルコは1972年1月12日付で日本プロレスを解雇)。 12月15日 - 芳の里から自宅謹慎を言い渡されていた山本が、これを不服として日本プロレスを退団。 1972年1月13日 - 猪木が新日本プロレスリング株式会社の会社登記手続きを行う。 1月26日 - 猪木が京王プラザホテルで新日本プロレス設立会見を行う。 3月6日 - 新日本プロレス旗揚げ。 いずれにせよ、この事件が発端となり馬場と猪木の決裂は決定的なものとなり、「新日本プロレス」を旗揚げした猪木、「全日本プロレス」を起こした馬場が日本プロレスから離脱、客の呼べる両エース、中継を行っていた日本テレビとNETテレビ(現・テレビ朝日)をそれぞれ失った日本プロレスは崩壊した。慎重派といわれた馬場は、この事件についてその後一切語らず、以降信頼関係を第一に考えるようになった。「裏切り者」の汚名をきせられた猪木は、以降攻撃的な策士の面をみせる一方でその行動にはスキャンダルが付きまとった。元来お人好しで馬場より猪木と気が合ったといわれる上田は、以降孤独の身となりフリーとして悪役レスラーを貫き通した。 ユセフ・トルコの話では、札幌大会で選手会が猪木を襲撃する計画があったという。最終的に猪木は、本来の控室ではなく、トルコが用意した別の控室へ向かったために難を逃れている(本来の控室には選手がすでに待ち伏せていた)。 後に上田は、「あの時、私は裏切り者にされた。一度猪木に経緯を説明したい。いかに私が日本プロレス幹部からいじめられていたことを…」と雑誌のインタビューで答え、自身の引退興行の際にも「猪木さんにお詫びしたい」と語ったといわれ、後に和解したものの、猪木は「追放された事実よりも仲間だと思っていた上田の裏切りに深く傷ついた」と語っている。 猪木側に付いていた山本小鉄は、「こんな事があろうがなかろうが、馬場と猪木は遅かれ早かれ決別していた」と語っている。また1992年に大熊元司が没した際、上田に不信感を抱く馬場は大熊の訃報すら伝えなかったため、上田は「祝儀不祝儀の付き合いも断つのか⁈」と涙ながらに激怒した。
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