密夫大名
密夫大名―べらんめェ宗俊
密夫大名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 15:56 UTC 版)
文化13年(1816年)秋、正甫は同僚の信濃国高遠藩主・内藤頼以に招かれて、高遠藩下屋敷(現在の新宿御苑)で小鳥狩を楽しんだ。正甫は狩りに熱中し屋敷隣の千駄ヶ谷村に迷い込んだ。そこで偶然見つけた農家で留守番をしていた女房を正甫は押し倒したが、そこへ帰宅してきた夫に見つかった。夫は天秤棒を振り上げ、女房の上に乗っていた正甫を殴りつけたため、正甫は抜刀して夫の片腕を切り落とした。後始末を家臣に任せ、農家夫婦は領地の浜松に移送して口封じをしたが、やがて噂は江戸市中に知れ渡り、正甫が登城する際は登城する他の大名の足軽らから「密夫大名!」「待ってました!強淫大名!」「百姓女のお味はいかがでござる」とからかわれた。 幕府の御膝元で大名家当主が起こしたこの事件は、やがて幕府中枢にも知れることとなった。同年12月23日、正甫は奏者番を免ぜられ、文化14年(1817年)9月14日に陸奥棚倉に処罰的な移封命令を受けることとなった。しかし正甫は病気を理由に、棚倉に入ることは一度もなかった。棚倉藩主・小笠原長昌は九州の肥前国唐津藩に転封となり、浜松にはそれまでの唐津藩から江戸に近い位置への転封を目論んでいた水野忠邦が代わって入り、以降幕閣で出世していくこととなる(三方領知替え)。 転封後は病と称して一度も帰国していない。文政3年(1820年)4月16日、家督を長男・正春に譲って隠居する。正春の時代に井上家は浜松に復帰する。その正春よりも長生きし、安政5年(1858年)1月26日に死去。享年84。
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