密夫大名とは? わかりやすく解説

密夫大名

作者天宮一郎

収載図書べらんめェ宗俊
出版社ミリオン出版
刊行年月2006.5
シリーズ名大洋時代文庫


密夫大名―べらんめェ宗俊

作者天宮一郎

収載図書姦殺の剣―書下ろし時代小説傑作選 3
出版社ミリオン出版
刊行年月2005.4
シリーズ名大洋時代文庫


密夫大名

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 15:56 UTC 版)

井上正甫」の記事における「密夫大名」の解説

文化13年1816年)秋、正甫同僚信濃国高遠藩主・内藤頼以招かれて、高遠藩下屋敷現在の新宿御苑)で小鳥狩楽しんだ正甫狩り熱中し屋敷隣の千駄ヶ谷村迷い込んだ。そこで偶然見つけた農家留守番をしていた女房正甫押し倒したが、そこへ帰宅してきた夫に見つかった。夫は天秤棒振り上げ女房の上乗っていた正甫殴りつけたため、正甫抜刀して夫の片腕切り落とした後始末家臣任せ農家夫婦領地浜松移送し口封じをしたが、やがて噂は江戸市中知れ渡り正甫登城する際は登城する他の大名足軽らから「密夫大名!」「待ってました!強淫大名!」「百姓女のお味はいかがでござる」とからかわれた。 幕府御膝元大名家当主起こしたこの事件は、やがて幕府中枢にも知れることとなった同年12月23日正甫奏者番を免ぜられ、文化14年1817年9月14日陸奥棚倉処罰的な移封命令を受けることとなった。しかし正甫病気理由に、棚倉に入ることは一度もなかった。棚倉藩主・小笠原長昌九州肥前国唐津藩転封となり、浜松にはそれまで唐津藩から江戸に近い位置への転封目論んでいた水野忠邦が代わって入り以降幕閣出世していくこととなる(三方領知替え)。 転封後は病と称して一度帰国していない。文政3年1820年4月16日家督長男正春譲って隠居する正春時代井上家浜松復帰する。その正春よりも長生きし安政5年1858年1月26日死去享年84

※この「密夫大名」の解説は、「井上正甫」の解説の一部です。
「密夫大名」を含む「井上正甫」の記事については、「井上正甫」の概要を参照ください。

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