大洋時代
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1975年に辻佳紀との捕手・同姓・元チームメイト同士での交換トレードで、大洋ホエールズに移籍。この頃のチームについて、後に「とにかくピッチャーのコントロールが適当で、コンビネーションなんか誰も考えてなかった。技術も意識も両方が足らんチームでした。」と振り返っている。トレードになった時は、それまで阪神のコーチになるつもりで遊んでいたため、体が鈍っていたのを藤村隆男二軍投手コーチに鍛え直された。体は戻ったが、頭脳と勘はすぐに戻らず、大洋の投手の特徴がなかなか頭に入ってこなかったこともあって、薄暮ゲームで2球続けて平松の球をパスボールした。そして秋山登監督に「感覚もあるだろうから、二軍戦に出ろ」と言われたという。当時の大洋二軍は等々力のグラウンドにあり、辻はセンターの向こうにあった家賃5000円で水道使いたい放題、隙間風吹き放題のアパートに住んでいた。二軍の試合に出場するのは簡単であったが、この試合が雨で中止になった。1966年に一軍に上がってから試合に出なくてもずっと一軍のブルペンにいたため、一度も二軍の試合には出場したことはなく、引退まで出場しなかった。 2年目の山下大輔と一番最初に仲良くなり、千葉のオープン戦に行った時に山下はグラブの紐が切れて別のグラブを使っていたが、辻は運動具店と考えていつもバックに入れていた十手のようなものを取り出し、紐を穴に通って引っ張り、修理を完成させたことがきっかけであった。山下が「ダンプさん、こんなに早く直してくれてありがとう」と他の選手がいる前で礼を言い、チームに溶け込むことができた。 伊藤勲・福嶋久晃に次ぐ3番手捕手として記録以外でチームに貢献し、1977年8月28日の広島戦(川崎)では杉山知隆の代打で三輪悟から逆転サヨナラ2ラン本塁打を放つ。伊藤が南海に移籍した1979年からは福嶋の2番手捕手となり、1981年7月9日の広島戦(横浜)でアート・ガードナーの3ラン本塁打の際、ホームベースの踏み忘れを指摘して被弾数を減らした。記録上は三塁打として処理されランナー2人の生還は認められたが、ベース踏み忘れの本塁打取り消しは1958年9月19日の長嶋茂雄に次ぐ2人目で、ホームベースの踏み忘れは史上初であった。 1982年には日本ハムから加藤俊夫が加入し、関根潤三監督が加藤・辻・福嶋のベテラン捕手3人体制を編み出す。辻は前年6勝に終わった平松政次の再生を任されたほか、新人・若手投手の育成を主に受けることとなった。シーズンオフの契約更改では、プロ入り21年目でやっと1000万円の大台に達した。現役最年長となった1983年は関根が辻の年齢的ハンデを考えて「セーブ捕手」構想を打ち出すが、5月19日の巨人戦(福井)で平松の12年ぶりの巨人戦完封をアシストしたほか、同31日のヤクルト戦(平和台)では自身初の1試合5打点を記録するなど活躍。同年は6月時点で18試合に先発マスクを被り、この間のチーム成績は10勝7敗1分と勝ち越していた。シーズン後半に若菜嘉晴が加入すると、42歳となった1984年には出場機会が大幅に激減。 1983年6月15日の中日戦(石川県立)で鈴木孝政から最後の本塁打、8月12日の中日戦(横浜)で最後の安打を放った。 1984年は6月10日の中日戦(円山)で1-4で破れると、試合後の千歳空港で搭乗手続きを済ませた辻に関根が近づいてきた。関根が「なぁ辻よ、つらいだろうが黙って聞いてくれ。お前はまだ体が動く。その体が動くうちに若い者に捕手術の全てを教えてやってくれないか」と物静かな口調で話すと、辻は「監督、話はわかりました。しかし結論を出すまで1週間待ってください」と言ったが、関根は「球団には明日返事をすることになっている」と言った。翌11日に横浜スタジアムそばの喫茶店で、関根に二軍コーチを引き受けることを伝えた。二軍コーチになった辻は若い捕手にサインの出し方を教え、「いいか、サインは簡単な気持ちで出すなよ、右指の一本、一本に祈りを込めて、投手にわかったな、わかったなという気持ちで出すんだ。これだけは忘れるな。捕手の出すサインには顔があるんだ。その顔が投手を説得するんだよ」と伝えた。二軍でほぼコーチ役となったが、平松の引退試合となった10月13日のヤクルト戦(横浜)が、辻にとっても最終出場となった。同年引退。 捕手で実働22年は、中嶋聡の29年、谷繁元信の27年、野村克也の26年、八重樫幸雄の23年に次ぐ記録である。
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大洋時代
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1984年のシーズン終了後に長崎啓二との交換トレードで横浜大洋ホエールズへ移籍。 1985年は一軍公式戦23試合に登板したが、シーズン終了後に球団から戦力外通告を受けた。阪神が長崎の満塁本塁打などによって球団史上初の日本シリーズ制覇を果たした同年11月2日に、西宮第二球場で阪急ブレーブスの入団テストに参加。テストに立ち会った上田利治監督からは練習不足を指摘されたものの、「今日(採否を)決めて下さい」と上田へ懇願したことから入団が決まった。本人が後に述懐したところによれば、「阪神時代の1983年から自分のイメージ通りの投球が少しずつできなくなっていたので、環境を再び変えることで自分自身と勝負したかった。あと1年阪神にいたら日本一(日本シリーズ制覇)のメンバーになれていたかも知れないが、悔いなど感じたことはない。むしろ、阪神時代の対戦で(通算32打数8安打、2本塁打、7打点を記録されるなど)苦手にしていた(1982年セントラル・リーグ首位打者の)長崎さんと(交換トレードで)対等に評価されたことを誇りに思う」という。
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大洋時代
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1983年シーズン途中に帰国し、横浜大洋ホエールズに入団。当時の大洋は辻恭彦、加藤俊夫など捕手の高齢化が進んでいたため、若返りを図る意味から獲得に踏み切った。移籍3年目の1985年には自身唯一の全試合出場するなど、大洋でも正捕手として活躍した。同年、3年ぶりの出場となったオールスターでは7月21日の第2戦(川崎)では2回表に佐藤義則から先制2ラン本塁打を放ち、山内一弘に続いて史上2人目の両リーグ本塁打を達成している。1986年には打率.288(リーグ11位)の好記録を残す。 実用英語技能検定1級を所持し、アメリカでコーチをするなどの語学力を活かして、大洋時代は巨人のレジー・スミスやウォーレン・クロマティをよく挑発していた。スミスに対しては「顔面スレスレのビーンボールを多用する」→「激怒したスミスが若菜に砂を掛ける」→「その報復としてさらにビーンボールが多用される」といった悪循環もあったが、1980年代後半にはクロマティとの駆け引きで有名になり、バッターボックスで口論になっていた。遠藤一彦がクロマティを三振にとってチェンジになる際、遠藤と若菜は2人で頭を人差し指で指し"頭脳の差"というアピールをし、クロマティの怒りを誘っていたが、「犬猿の仲」というわけではなく、OBオールスター戦で若菜とクロマティが同じチームでプレイすることもよくあった。 1987年8月4日の巨人戦(横浜)では、ホームに返球されてきたボールがバウンドして、うまい具合に若菜の左脇に挟まり、そのまま捕球した体勢でランナー・中畑清とクロスプレーとなり、あたかもタッチしたと見せ掛けたプレーで刺殺を取った。この「若菜の空タッチ」はフジテレビ「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」で採り上げられ、曲者の若菜を象徴するプレーである。 同年に古葉竹識監督が就任して以降は出番が減少し、1988年オフにはついに不満が爆発。公然と球団批判を展開していたという情報があり、今回は首脳陣との衝突にとどまらず、チームメートをも揶揄。1989年1月5日に謝罪文を提出して一旦決着も、シーズン開幕後、1985年から1986年まで大洋で指揮を執っていた近藤貞雄監督に誘われ、無償トレードで日本ハムファイターズへ移籍した。
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大洋時代
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1967年はルーキーながら6月から先発陣の一角に起用される。8月13日には中日ドラゴンズを相手に先発し、5回を中利夫の本塁打による1失点と好投、山下律夫のリリーフを仰ぐが初勝利を挙げた。 しかしその後は伸び悩み二軍暮らしが長かった。1972年には主に中継ぎとして23試合に登板、9月27日には山下律夫をリリーフし、広島から5年ぶりに白星。同年は2勝を記録し、翌1973年も中継ぎとして一軍で起用されるが、徐々に登板機会が減少した。
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