大洋時代とは? わかりやすく解説

大洋時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 06:15 UTC 版)

辻恭彦」の記事における「大洋時代」の解説

1975年辻佳紀との捕手同姓・元チームメイト同士での交換トレードで、大洋ホエールズ移籍この頃チームについて、後に「とにかくピッチャーコントロールが適当で、コンビネーションなんか誰も考えてなかった。技術意識両方足らんチームでした。」と振り返っている。トレードになった時は、それまで阪神コーチになるつもりで遊んでいたため、体が鈍っていたのを藤村隆男二軍投手コーチ鍛え直された。体は戻ったが、頭脳と勘はすぐに戻らず大洋投手特徴がなかなか頭に入ってこなかったこともあって、薄暮ゲーム2球続けて平松の球をパスボールした。そして秋山登監督に「感覚もあるだろうから、二軍戦に出ろと言われたという。当時大洋二軍等々力グラウンドにあり、辻はセンター向こうにあった家賃5000円水道使いたい放題隙間風吹き放題アパート住んでいた。二軍試合出場するのは簡単であったが、この試合中止になった1966年一軍上がってから試合に出なくてもずっと一軍ブルペンにいたため、一度二軍試合には出場したことはなく、引退まで出場しなかった。 2年目山下大輔と一番最初に仲良くなり、千葉のオープン戦行った時に山下グラブの紐が切れて別のグラブ使っていたが、辻は運動具店と考えていつもバック入れていた十手のようなものを取り出し、紐を穴に通って引っ張り修理完成させたことがきっかけであった山下が「ダンプさん、こんなに早く直してくれてありがとう」と他の選手がいる前で礼を言いチーム溶け込むことができた。 伊藤勲福嶋久晃に次ぐ3番捕手として記録以外でチーム貢献し1977年8月28日広島戦川崎)では杉山知隆代打三輪悟から逆転サヨナラ2ラン本塁打放つ伊藤南海移籍した1979年からは福嶋2番捕手となり、1981年7月9日広島戦横浜)でアート・ガードナー3ラン本塁打の際、ホームベース踏み忘れ指摘して被弾数を減らした記録上は三塁打として処理されランナー2人生還認められたが、ベース踏み忘れ本塁打取り消し1958年9月19日長嶋茂雄に次ぐ2人目で、ホームベース踏み忘れ史上であった1982年には日本ハムから加藤俊夫加入し関根潤三監督加藤・辻・福嶋ベテラン捕手3人体制編み出す。辻は前年6勝に終わった平松政次再生任されたほか、新人若手投手育成を主に受けることとなったシーズンオフ契約更改では、プロ入り21年目でやっと1000万円の大台達した現役最年長となった1983年関根が辻の年齢的ハンデ考えてセーブ捕手構想打ち出すが、5月19日巨人戦福井)で平松12年ぶりの巨人戦完封アシストしたほか、同31日ヤクルト戦平和台)では自身初の1試合5打点記録するなど活躍同年6月時点18試合先発マスク被りこの間チーム成績10勝7敗1分と勝ち越していた。シーズン後半に若菜嘉晴加入すると、42歳となった1984年には出場機会大幅に激減1983年6月15日中日戦石川県立)で鈴木孝政から最後本塁打8月12日中日戦横浜)で最後安打放った1984年6月10日中日戦円山)で1-4破れると、試合後の千歳空港搭乗手続き済ませた辻に関根が近づいてきた。関根が「なぁ辻よ、つらいだろう黙って聞いてくれ。お前はまだ体が動く。その体が動くうちに若い者捕手術全て教えてやってくれないか」と物静かな口調で話すと、辻は「監督、話はわかりました。しかし結論を出すまで1週間待ってくださいと言ったが、関根は「球団には明日返事をすることになっていると言った。翌11日横浜スタジアムそばの喫茶店で、関根二軍コーチ引き受けることを伝えた二軍コーチになった辻は若い捕手サイン出し方を教え、「いいか、サイン簡単な気持ちで出すなよ、右指の一本一本祈り込めて投手わかったな、わかったなという気持ちで出すんだ。これだけ忘れるな。捕手の出すサインには顔があるんだ。その顔が投手説得するんだよ」と伝えた二軍でほぼコーチ役となったが、平松引退試合となった10月13日ヤクルト戦横浜)が、辻にとっても最終出場となった同年引退捕手実働22年は、中嶋聡29年谷繁元信27年野村克也26年八重樫幸雄23年に次ぐ記録である。

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大洋時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 20:31 UTC 版)

池内豊 (野球)」の記事における「大洋時代」の解説

1984年シーズン終了後長崎啓二との交換トレード横浜大洋ホエールズ移籍1985年一軍公式戦23試合登板したが、シーズン終了後球団から戦力外通告受けた阪神長崎満塁本塁打などによって球団史上初の日本シリーズ制覇果たした同年11月2日に、西宮第二球場阪急ブレーブス入団テスト参加テスト立ち会った上田利治監督からは練習不足を指摘されたものの、「今日採否を)決めて下さい」と上田懇願したことから入団決まった本人が後に述懐しところによれば、「阪神時代1983年から自分イメージ通り投球少しずつできなくなっていたので、環境を再び変えることで自分自身勝負したかった。あと1年阪神にいたら日本一日本シリーズ制覇)のメンバーになれていたかも知れないが、悔いなど感じたことはない。むしろ、阪神時代対戦で(通算32打数8安打、2本塁打、7打点記録されるなど)苦手にしていた(1982年セントラル・リーグ首位打者の)長崎さんと(交換トレードで)対等に評価されたことを誇りに思う」という。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:44 UTC 版)

若菜嘉晴」の記事における「大洋時代」の解説

1983年シーズン途中帰国し横浜大洋ホエールズ入団当時大洋辻恭彦加藤俊夫など捕手高齢化進んでいたため、若返りを図る意味から獲得踏み切った移籍3年目1985年には自身唯一の全試合出場するなど、大洋でも正捕手として活躍した同年3年ぶりの出場となったオールスターでは7月21日の第2戦(川崎)では2回表に佐藤義則から先制2ラン本塁打放ち山内一弘続いて史上2人目の両リーグ本塁打達成している。1986年には打率.288(リーグ11位)の好記録を残す。 実用英語技能検定1級所持しアメリカでコーチをするなどの語学力活かして、大洋時代は巨人レジー・スミスウォーレン・クロマティをよく挑発していた。スミスに対しては「顔面スレスレビーンボール多用する」→「激怒したスミス若菜に砂を掛ける」→「その報復としてさらにビーンボール多用される」といった悪循環もあったが、1980年代後半にはクロマティとの駆け引き有名になり、バッターボックス口論になっていた。遠藤一彦クロマティ三振にとってチェンジになる際、遠藤若菜2人で頭を人差し指指し"頭脳の差"というアピールをし、クロマティ怒り誘っていたが、「犬猿の仲というわけではなく、OBオールスター戦若菜クロマティが同じチームプレイすることもよくあった。 1987年8月4日巨人戦横浜)では、ホーム返球されてきたボールバウンドして、うまい具合若菜の左脇に挟まり、そのまま捕球した体勢ランナー中畑清クロスプレーとなり、あたかもタッチした見せ掛けたプレー刺殺取った。この「若菜の空タッチ」はフジテレビプロ野球珍プレー・好プレー大賞」で採り上げられ曲者若菜象徴するプレーである。 同年古葉竹識監督就任して以降出番減少し1988年オフにはついに不満が爆発公然と球団批判展開していたという情報があり、今回首脳陣との衝突とどまらずチームメートをも揶揄1989年1月5日謝罪文提出して一旦決着も、シーズン開幕後、1985年から1986年まで大洋指揮を執っていた近藤貞雄監督誘われ無償トレード日本ハムファイターズ移籍した

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大洋時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 04:13 UTC 版)

高垣義広」の記事における「大洋時代」の解説

1967年ルーキーながら6月から先発陣一角起用される。8月13日には中日ドラゴンズ相手先発し、5回を中利夫本塁打による1失点好投山下律夫リリーフを仰ぐが初勝利を挙げた。 しかしその後伸び悩み二軍暮らし長かった1972年には主に中継ぎとして23試合登板9月27日には山下律夫リリーフし、広島から5年ぶりに白星同年は2勝を記録し、翌1973年中継ぎとして一軍起用されるが、徐々に登板機会減少した

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