大洋本拠地時代
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1957年(昭和32年)から1977年(昭和52年)の21シーズンは大洋ホエールズのみが川崎を本拠地とした。 1960年(昭和35年)に外野スタンドの増築が完工した。前述の外野スタンドの構造はこの時からのものである。収容人員は公称値で30,000人となったが、実際の収容人員は25,000~27,000人、もしくはそれ以下ともいわれた。大洋は監督に三原脩が就任した。主力に秋山登や近藤昭仁らを擁してシーズンを闘い、8月11日に島田源太郎が史上6人目の完全試合を達成するなど勢いに乗ると球団史上初のリーグ優勝を飾り、川崎球場で初めて開催された日本シリーズでも大毎オリオンズを下して日本一に輝いた。しかし、この年の大洋は公式戦、日本シリーズともに敵地で優勝を決めており、その後、大洋は川崎時代には優勝することが出来なかった。後年、川崎球場を本拠地としたロッテも川崎時代はパ・リーグの2シーズン制(前後期制)時代に前期優勝が2度あったもののリーグ優勝は果たせなかったので、これが川崎球場で行われる唯一の日本シリーズともなった。 前述した電圧低下による照明の消灯はこの頃もしばしば発生していた。1959年(昭和34年)9月30日の大洋対国鉄戦では5回までに実に4度もの停電に見舞われ、その後送電回路を切り替えて何とか試合を成立させた。1961年(昭和36年)5月、照明設備の改修が行われた。川崎球場の出資企業でもある東芝の提案により、3種類のサーチライトを組み合わせて昼光色に近い照明効果が得られる「カクテル光線」が採用され、当時国内の野球場では最高となる最大照度2000ルクス超を確保できるようになった。 1962年(昭和37年)7月1日に開催された対巨人15回戦で、巨人の王貞治が実戦で初めて「一本足打法」を披露した。巨人はこの試合まで投手陣が好投しても打線が繋がらず惜敗を繰り返しており、この試合前の首脳陣ミーティングでは投手コーチの別所毅彦が打線の不甲斐なさに声を荒らげた。打撃コーチの荒川博は当時、王と二人三脚で一本足打法に取り組んでいたが、いよいよ実戦で試す時が来たと意を決し、練習中の王に「今日から(打撃フォームは)アレで行け」と命令を下した。第1打席、大洋先発の稲川誠がモーションに入ると、王の右足がスッと上がった。稲川は「おかしいな」と思ったが、そう思う間もなく痛打を喫した。結局この試合で王は本塁打を含む3安打を放ち、試合は10-0で巨人が大勝した。 王はその後、ホームランバッターとして日本球界に君臨。右翼スタンドへの打球はしばしば上段の防球フェンスを越えて場外に飛び出していたため、後にフェンスが嵩上げされ「王ネット」と呼ばれた。1976年(昭和51年)7月23日に行われた対巨人16回戦の8回表、大洋投手の鵜沢達雄が投じたカーブを叩き、日本プロ球界史上初となる通算700本目のアーチを右翼スタンドに架けた。その後、この王の700号を記念するプレートが右翼席最前列に設置されたと同時に、当時は川崎球場を別名700号球場と呼ぶ声も挙がっていた。 この間、1963年(昭和38年)に運営会社の「株式会社川崎スタジアム」が「株式会社川崎球場」に商号を改称した。1971年(昭和46年)12月に川崎球場で初めてアメリカンフットボールの試合(シルバースター対在日米軍オールスター戦)が行われた。開場以来バックネットは支柱で支える構造だったが、観客の視界を改善するために1975年(昭和50年)、ワイヤーで吊り下げる懸垂式のものに改修した。 原辰徳(元巨人選手・監督)が東海大学付属相模高等学校在学中(1974年 - 1976年)には、川崎球場で全国高等学校野球選手権神奈川大会(夏の甲子園神奈川県大会)決勝戦が開催されたこともある。 1977年(昭和52年)4月29日に開催された対阪神タイガース3回戦で、阪神の佐野仙好が大洋の清水透の打球を捕った際、外野フェンスのコンクリート部に激突し頭蓋骨骨折の重傷を負った。当時コミッショナーだった金子鋭はこの事態を重く見て、5月12日の実行委員会で全本拠地球場のフェンスにラバーの設置を義務付けることを提案して全球団の了承を得た。これがその後、全国の主要野球場にラバーフェンスが普及するきっかけとなった。両軍ベンチ前面にベンチ全体を覆う防球用のフェンスが設置されたが、「プレイが見づらい」と選手に不評だったことから後に外されている。 川崎球場はこの当時、既に築四半世紀を超えて徐々に老朽化が著しくなりつつあった。大洋は施設や立地、集客力などの問題もあってかねてから川崎球場に限界を感じ、隣接する横浜市に本拠地を移転する構想を持っていた。大洋は手始めに1972年(昭和47年)11月22日、横浜市に対し「横浜平和球場が改築した折には、本拠地を川崎から移転したい」と申し入れ、当時横浜市長だった飛鳥田一雄の同意のもと覚書を取り交わした。その後中区の横浜公園内にあった横浜公園平和野球場の改築計画が具体化し、1977年(昭和52年)4月から横浜スタジアムの建設工事が始まった。 大洋は6月15日、本拠地を横浜に移転することを前提として検討を進めている旨を公式に発表。8月20日、1978年(昭和53年)から横浜スタジアムを専用球場とすることを川崎市に正式に通達した。しかし、大洋はそれまで川崎市に対して根回しを全く行っておらず、突然一方的に移転を伝えられたことで川崎市は激怒。市内の19団体が移転反対を唱えるキャンペーンを行い、当時の市の人口の約半分に当たる54万人分の署名を集めるなど一時は猛反発を呼んだ。 ロッテオリオンズもこの年から神奈川県を保護地域とし、大洋と共用で横浜を本拠地としたいと表明した。ロッテは1972年(昭和47年)のオフに東京スタジアムが閉鎖された後、宮城県仙台市の宮城球場を暫定本拠地とし、首都圏では後楽園球場、明治神宮野球場、川崎球場など他球団の本拠地を間借りして主催試合を開催していた。しかし、大洋は共用による日程の過密化などを恐れてロッテの申し入れを拒否した。川崎市は上述の通り大洋に半ば裏切られた格好で、プロ本拠地としての経済効果の喪失を危惧してロッテに対し積極的に誘致を進めていた。 結局その後の折衝によって、大洋は当初の計画通り横浜スタジアムを、ロッテは大洋に代わって川崎球場を専用球場とすることが決まった。大洋は横浜移転初年の1978年(昭和53年)も川崎球場で主催公式戦を2試合開催している。これらの詳細は横浜スタジアム#球場の歴史、ジプシー・ロッテも併せて参照のこと。
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