大洋本拠地時代とは? わかりやすく解説

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大洋本拠地時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 01:01 UTC 版)

川崎球場」の記事における「大洋本拠地時代」の解説

1957年昭和32年)から1977年昭和52年)の21シーズン大洋ホエールズのみが川崎本拠地とした。 1960年昭和35年)に外野スタンド増築完工した。前述外野スタンド構造はこの時からのものである収容人員公称値30,000となったが、実際収容人員25,00027,000人、もしくはそれ以下ともいわれた。大洋監督三原脩就任した主力秋山登近藤昭仁らを擁してシーズン闘い8月11日島田源太郎史上6人目完全試合達成するなど勢いに乗る球団史初のリーグ優勝飾り川崎球場初め開催され日本シリーズでも大毎オリオンズ下して日本一輝いた。しかし、この年大洋公式戦日本シリーズともに敵地優勝決めており、その後大洋川崎時代には優勝することが出来なかった。後年川崎球場本拠地としたロッテ川崎時代パ・リーグ2シーズン制前後期制時代前期優勝2度あったもののリーグ優勝果たせなかったので、これが川崎球場行われる唯一の日本シリーズともなった前述した電圧低下による照明消灯この頃もしばしば発生していた。1959年昭和34年9月30日大洋国鉄戦では5回までに実に4度もの停電見舞われその後送電回路切り替えて何とか試合成立させた。1961年昭和36年5月照明設備改修が行われた。川崎球場出資企業でもある東芝提案により、3種類のサーチライト組み合わせて昼光色に近い照明効果得られるカクテル光線」が採用され当時国内の野球場では最高となる最大照度2000ルクス超を確保できるようになった1962年昭和37年7月1日開催された対巨人15回戦で、巨人王貞治実戦初めて「一本足打法」を披露した巨人はこの試合まで投手陣好投して打線が繋がらず惜敗繰り返しており、この試合前の首脳陣ミーティングでは投手コーチ別所毅彦打線不甲斐なさに声を荒らげた打撃コーチ荒川博当時、王と二人三脚一本足打法取り組んでいたが、いよいよ実戦で試す時が来たと意を決し練習中の王に「今日から打撃フォームは)アレ行け」と命令下した。第1打席大洋先発稲川誠モーションに入ると、王の右足スッと上がった稲川は「おかしいな」と思ったが、そう思う間もなく痛打喫した結局この試合で王は本塁打を含む3安打放ち試合10-0巨人大勝した。 王はその後ホームランバッターとして日本球界君臨右翼スタンドへの打球はしばし上段の防球フェンス越えて場外飛び出していたため、後にフェンス嵩上げされ「王ネット」と呼ばれた1976年昭和51年7月23日行われた巨人16回戦の8回表、大洋投手鵜沢達雄投じたカーブ叩き日本プロ球界史上初となる通算700本目アーチ右翼スタンドけた。その後、この王の700号を記念するプレート右翼最前列設置されたと同時に当時川崎球場を別名700球場と呼ぶ声も挙がっていた。 この間1963年昭和38年)に運営会社の「株式会社川崎スタジアム」が「株式会社川崎球場」に商号改称した1971年昭和46年12月川崎球場初めアメリカンフットボール試合シルバースター在日米軍オールスター戦が行われた。開場以来バックネット支柱支え構造だったが、観客視界改善するために1975年昭和50年)、ワイヤー吊り下げる懸垂式のものに改修した原辰徳(元巨人選手・監督)が東海大学付属相模高等学校在学中1974年 - 1976年)には、川崎球場全国高等学校野球選手権神奈川大会夏の甲子園神奈川県大会決勝戦開催されたこともある。 1977年昭和52年4月29日開催された対阪神タイガース3回戦で、阪神佐野仙好大洋清水透打球を捕った際、外野フェンスコンクリート部に激突し頭蓋骨骨折重傷負った当時コミッショナーだった金子鋭はこの事態重く見て5月12日実行委員会で全本拠地球場フェンスラバー設置義務付けることを提案して全球団の了承得た。これがその後全国の主要野球場にラバーフェンスが普及するきっかけとなった両軍ベンチ前面ベンチ全体を覆う防球用のフェンス設置されたが、「プレイ見づらい」と選手不評だったことから後に外されている。 川崎球場はこの当時、既に築四半世紀超えて徐々に老朽化著しくなりつつあった。大洋施設立地集客力などの問題もあってかねてから川崎球場限界感じ隣接する横浜市本拠地移転する構想持っていた。大洋手始め1972年昭和47年11月22日横浜市対し横浜平和球場改築した折には、本拠地川崎から移転したい」と申し入れ当時横浜市長だった飛鳥田一雄同意のもと覚書取り交わしたその後中区横浜公園にあった横浜公園平和野球場改築計画具体化し1977年昭和52年4月から横浜スタジアム建設工事始まった大洋6月15日本拠地横浜移転することを前提として検討進めている旨を公式に発表8月20日1978年昭和53年)から横浜スタジアム専用球場とすることを川崎市正式に通達した。しかし、大洋それまで川崎市に対して根回しを全く行っておらず、突然一方的に移転伝えられたことで川崎市激怒市内19団体移転反対唱えるキャンペーン行い当時の市の人口約半分に当たる54万人分の署名集めるなど一時猛反発呼んだロッテオリオンズこの年から神奈川県保護地域とし、大洋共用横浜本拠地としたい表明したロッテ1972年昭和47年)のオフ東京スタジアム閉鎖された後、宮城県仙台市宮城球場暫定本拠地とし、首都圏では後楽園球場明治神宮野球場川崎球場など他球団本拠地間借りして主催試合開催していた。しかし、大洋共用による日程過密化などを恐れてロッテ申し入れ拒否した川崎市上述通り大洋半ば裏切られ格好で、プロ本拠地として経済効果喪失危惧してロッテ対し積極的に誘致進めていた。 結局その後折衝によって、大洋当初の計画通り横浜スタジアムを、ロッテ大洋に代わって川崎球場専用球場とすることが決まった大洋横浜移転初年1978年昭和53年)も川崎球場主催公式戦を2試合開催している。これらの詳細横浜スタジアム#球場の歴史ジプシー・ロッテ併せて参照のこと。

※この「大洋本拠地時代」の解説は、「川崎球場」の解説の一部です。
「大洋本拠地時代」を含む「川崎球場」の記事については、「川崎球場」の概要を参照ください。

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