大洋監督2期目とは? わかりやすく解説

大洋監督2期目(1977 - 1979)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 09:22 UTC 版)

別当薫」の記事における「大洋監督2期目(1977 - 1979)」の解説

2期目1977年この年レギュラー入り高木をはじめ中塚松原シピン打ちまくったものの、投手陣平松・間斉藤明夫などがローテーション守ったチーム7月まで五分五分成績であったが、8月以降負け込み始めた。それでも9月時点で5位につけ最下位脱出目前思われたが10月に入ると躓き最終的に2年連続最下位終わった勝率前年からやや改善された。打撃陣はこの年急成長田代ベテラン松原などの活躍優勝した巨人の181本に次ぐリーグ2位の176本を放ち重量打線健在であった投手陣新人斉藤負け越しながらも新人王輝き平松杉山知隆などもそれなりの成績残したが、チーム防御率が4.45から4.94まで落ち込んだ後半戦開幕後8月2日大洋は「翌年から横浜市本拠地移転する」と正式に発表し翌年から本拠地横浜スタジアム移転したため、川崎本拠地として使用したのはこの年最後となった対戦成績では優勝巨人に相変わらず弱く1016敗と負け越したが、2位ヤクルトには1212敗2分と健闘した1978年移転に伴い球団名を「横浜大洋ホエールズ改称しホーム用ロゴを「YOKOHAMA」に変更してチームカラー港町横浜相応しくマリンブルーに、ビジター用の上着もマリンブルー変更するなどユニフォーム一新した開幕から前年覇者巨人ヤクルト首位争い8月時点では巨人3.5ゲーム差につけた終盤投打ともに息切れして広島抜かれたものの、中日故障続出助けられて4位で終えた投手陣ではベテラン平松2年目斉藤加えてこの年日本ハムからトレード復帰した野村が2勝利を挙げた。特に野村この年17勝を挙げて別当期待応える活躍見せチームの4位躍進原動力となり全体防御率リーグ2位の3.90を記録打撃陣は巨人移籍したシピン穴埋めとして、メジャーリーグからフェリックス・ミヤーン加入して打撃・守備チーム貢献本拠地移転もあり本塁打前年176本から132本へ減少したが、不動4番松原田代高木打線活躍打率リーグ3位となった対戦成績では最下位阪神19勝5敗2分と勝ち越したが、それ以外では中日に1412敗と勝ち越すのがやっとであった最後1979年優勝を狙うべくクラウンから基満男を、中日からジーン・マーチンそれぞれ獲得前年覇者ヤクルト開幕から8連敗喫したこともあり、チーム一時首位に立つなど健闘前半戦首位中日3.5ゲーム差3位終えるが、後半戦に入ると広島抜け出してゲーム差広がり5位に転落10月6日広島優勝決定した後、チーム消化試合張り切り最終成績1964年以来15年ぶりの2位となったが、後半戦首位争い絡めなかった。投手陣野村平松斉藤加えて2年目遠藤一彦先発抑えとして活躍し平松が2.39で防御率1位となったものの、南海から移籍佐藤道郎がセの環境慣れず成績落としチーム防御率も4.05でリーグ4位に後退打撃陣はマーチン28本塁打打ち2位躍進原動力となり、ミヤーン首位打者獲得するなどチーム打率リーグ3位の.268であったが、チーム本塁打135本で最下位であったチームAクラス争い阪神17勝7敗2分と勝ち越したが、優勝広島に8勝16敗2分と負け越したのが大きく響いた

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