大洋球団解雇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 14:17 UTC 版)
本事件は野球協約統一契約書様式第17条(模範行為)に違反するものであることから、大洋球団は1992年1月7日付で保留選手扱いだった中山を解雇して中山の保留権を放棄した上で、統一契約書式第26条に基づき、中山を自由契約選手とすることを発表した。横浜地検からは既に不起訴・起訴猶予処分で釈放され、前途もある中山に対し、あえて野球生命を事実上絶つ厳罰を下した理由は「子供たちに夢を与える職業にありながら、その子供たちを真っ向から裏切る犯罪を犯した」という社会的影響の大きさを深く考慮したためだった。これに加え、大洋球団は須藤監督に戒告処分、岡崎社長・桜井球団代表に対しては同日からの1年間にわたり8%の減俸処分をそれぞれ科した。 中山は野球協約上「自由契約選手」となったため、他11球団とは契約できる形式ではあったが、「世間を騒がせ球界のイメージを著しく汚した破廉恥なわいせつ行為」(『中日新聞』1992年1月8日朝刊、記者:会田豊彦)で逮捕された中山を直ちに獲得しようとする球団はなかった。また、川島廣守セ・リーグ会長は声明文の中で「中山選手本人が社会的に立派に更生できることが確認される時点まで、全12球団が中山選手との選手契約を無期限に自粛するようお願いしたい」と要望したため、球界復帰は極めて困難になった。 岡崎は同日、記者会見で「中山投手は被害者やそのご家族に多大なご迷惑をかけ社会をお騒がせした。ホエールズの一員として在籍させることはできない」「大洋球団としては将来も中山と契約する意思はない」と話したが、「彼はまだ若く野球しかわかっていない。本人とご両親に相談の上で彼が立ち直れるよう、今後も相談に乗るつもりだ」と話し、球団として将来的に中山が更生してプロ球界に復帰するか、それ以外に社会的に復帰する場合に援助する姿勢を示した。この処分を受け川島セ・リーグ会長は「今回犯した破廉恥な行為で世間を騒がせた事実は消えない。プロ野球ファンの夢と期待を無惨にも踏みにじった。(すぐに)野球選手としての再起はできる相談ではない。今回の処分は球団の温情ある措置だと思う。失格選手としない配慮を踏まえての処分とご理解いただきたい」とコメントしたほか、吉國NPBコミッショナーも「『更生への道に障害にならないように』と失格選手にしなかった川島会長の心情も理解できる。同会長・大洋球団を信頼し、コミッショナーとしての追加処分は行わない」とコメントした。吉國NPBコミッショナーは1992年1月8日付で中山を自由契約選手として公示した。 中山が着用していた背番号19は1992年に「事実上の永久欠番扱い」となったが、「横浜ベイスターズ」への球団名変更が決まった直後の同年のドラフト会議で1位指名された日本石油・小桧山雅仁が「19にまつわる縁起の良いエピソード」を多く有していたことから、球団側は「これを機に次世代を担うルーキーに19番を背負わせることで中山の忌まわしい出来事を払拭しよう」と19番を提示し、小桧山自身も「事件のことは気にしない」と快諾したために欠番状態は1年で解消した。また、中山を欠いた状態で1992年シーズンを迎えることとなった大洋球団はその穴を埋めるべく、若手投手(友利結・盛田幸妃ら)や新人投手(斎藤隆・有働克也)の起用を余儀なくされ、事件による士気の低下も懸案された。結局、大洋は開幕から成績不振に悩まされ、同年5月には須藤監督が早々と監督を辞任した。 高校時代の恩師・谷脇は「中山は野球を取ったら何も残らない男だから、球界復帰へのチャンスだけはどうしても残しておきたいが、そのチャンスが巡ってきても中山が生かすことができるかどうかは不安がある」とコメントしていた。また解雇 - 球界復帰(中日入団)時には、堀内恒夫・豊田泰光(ともに野球解説者)や近藤唯之(スポーツライター)、中島章隆(『毎日新聞』記者)が、それぞれ中山の球界復帰に否定的なコメントを出したほか、事件当時に捜査を担当した神奈川県警捜査員は1993年に球界復帰の可能性が浮上した際、「(同年に発覚した江夏豊の覚醒剤事件について言及した上で)本事件は覚醒剤とは違い、直接の被害者がいる事件だ」と述べ、不快感を示していた。
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