野球選手として
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高校3年の時にはミルウォーキー・ブルワーズからドラフトされ、大学でも野球を続けていた彼は大学1年次、2年次の2年間で28試合に出場した。大学3年次終了時点にはニューヨーク・ヤンキースからドラフト24巡目で指名されたがNFL選手を目指した。 アトランタ・ファルコンズを解雇された直後の2001年にはアトランティックリーグのニューアーク・ベアーズで一塁手、三塁手、指名打者として1年間プレーした。彼はレジー・ジャクソンやドン・マッティングリーにあこがれておりヤンキースでプレーすることを目標としていた。
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野球選手として
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投手であったブラウンは高校卒業後の2001年のMLBドラフトにおいて、カンザスシティ・ロイヤルズに8巡目・全体の235位で指名された。2004年にはマイナーリーグクラスAまで昇格したものの、肩の故障のため2005年に引退した。
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野球選手として
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「トレイシー・マグレディ」の記事における「野球選手として」の解説
203cmの長身から投げ下ろすストレートを武器とするほか、ナックルボール、スライダー、チェンジアップ、カーブなどを投げることができる。
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野球選手として
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オリンピックの後は茨城県庁に勤務する一方で、「足を生かした仕事をしたい」と考えていたところ、知人から大沢伸夫(当時國學院大學硬式野球部監督)に話が行き、そこから大沢伸夫の実弟で東京オリオンズ(1969年よりロッテオリオンズ)コーチだった大沢啓二を介して永田雅一オーナーに話がつながる。元々は走塁コーチでという話であったが、飯島の知らぬうちに選手契約となっていた。その結果、永田の肝煎りで1968年のドラフト9位でオリオンズに指名され入団する。背番号は当時年間盗塁数の日本記録だった85を上回るようにとの期待を込めて88に決定。 後年、本人はロッテ入団について「気がついたら辞退できない状況になっていて、あの時は周りの人に怒られたなぁ。なにせ、いきなり陸上選手がプロ野球選手になったんだからね」と語っている。一方、早大の外の人間である吉岡の指導を受けたことで、早大卒業時にOBが就職の世話をしなかったことに遠因があるとする早大競走部後輩の証言もある。 球団は飯島の足に5000万円の傷害保険をかけた。飯島には1万8000円の特製スパイク(カンガルーの皮革を使用)が支給され、開幕前には大沢啓二がつききりで指導した。1969年のオープン戦では10試合目で初めて盗塁に成功した(それまでに盗塁刺を4回経験している)。 当時のロッテは客の不入りに苦しんでいたが、「世界初の代走専門選手」である飯島のデビュー戦には通常の4倍の観客が訪れた。開幕2日目となる対南海ホークス戦の9回裏、安打で一塁に出た山崎裕之の代走で出場。この時の南海の捕手は野村克也であったが、飯島は投球がキャッチャーミットに収まってからスタートし盗塁を成功させた。この試合で初盗塁を決めたことで飯島の人気は決定的になり、ロッテの本拠地・東京スタジアムの集客は前年比の倍になった。しかし、1971年までの3年間で117回代走起用され、通算盗塁成功23、盗塁死17、牽制死5、得点は46という成績に終わった(盗塁の内訳は二盗17・三盗4・本盗2)。読売ジャイアンツと対戦した1970年の日本シリーズには3試合で代走起用され、2得点を記録。第4戦の7回には一塁で牽制死している(巨人投手は倉田誠)が、飯島によるとその直前に一塁手の王貞治から「この場面で牽制はない」と言われたという(王は1992年の書籍で記憶にないと述べている)。 1971年6月20日の対西鉄ライオンズ戦(一塁走者として出場後、四球で二塁進塁後に捕手の後逸を見て三塁にスタートしたが途中で引き返そうとしてアウト)が公式戦最後の出場となった。登録上のポジションは外野手であったが、プロ生活3年間を通じて一軍では一度も打席および守備につくことはなかった。 前記の公式戦最終出場直後の1971年6月25日、イースタン・リーグ(二軍)のヤクルト戦で(代走起用後に打順が一巡したため)1度だけ打席に立ち、三球三振を喫している。また、二軍戦では7試合で外野の守備につき、刺殺と補殺を1つずつ記録している。 飯島と同期でプロ野球に入り盗塁の日本プロ野球記録(通算・シーズン)保持者となった福本豊(阪急ブレーブス)は、当時の飯島を「初めてグラウンドで対戦した時はそのスピードにたまげた」と引退後の著書に記し(福本の100mベストタイムは11秒2)、飯島が期待ほど盗塁できなかった理由について、スタートのタイミングが「音」で伝えられる陸上競技に対し、野球の盗塁では投手の牽制球や投球の「リズム」を「『目』を使って」自分で計る必要がある違いを指摘している。また、スライディングについても「ヘッドスライディングは勢いあまって、よく二塁ベースをオーバーしていた」と記し、盗塁の「3S」(スタート・スピード・スライディング)のうち2つに難があった飯島は「簡単には走れるわけがなかった」と述べている。宇佐美徹也は、野球に対する知識の不足に加え、初年度に7度の故障で3ヶ月も出場できなかったことを挙げて「脚がもろ過ぎて野球という激しい競技には不向き」と評した。一方で、飯島を塁に置いた時の通算チーム打率は.424、出塁率.491(151打数64安打、8本塁打、四死球20)という記録が残っており、宇佐美は「飯島の脚に必要以上に気をとられた相手投手が、その分だけ打者に力を注ぎきれなかったとすれば、代走屋飯島に対する評価もまた変わってくる」と記している。
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野球選手として
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中学時代に県大会優勝。丸子実業高在学時は春1回、夏2回、甲子園に正捕手として出場した。高校の後輩に桃井進がいる。 同校3年次の1974年に、作新学院高の江川卓、滝川高の中尾孝義らと受験合宿を行って、慶應義塾大学を受験したが、江川たちと一緒に不合格となった。江川が進路を変えて法政大学法学部第二部に入学し(のちに一部へ転籍)、1年生の秋のシーズンから法政大学野球部のエースとして活躍するのを尻目に、中尾と共に浪人による再挑戦の途を選び、一浪後の1975年に慶應義塾大学法学部法律学科に入学した。 慶應義塾大学に進学後は同校野球部に入部。1年生の春のシーズンの開幕戦から1978年の4年生の秋のシーズンの最終戦までの全ての試合に正捕手として出場し4年生時には主将を務めた。東京六大学野球リーグ戦に通算101試合出場し、396打数125安打、11本塁打、50打点、打率.316。ベストナイン1回。125安打は明治大学に1964年から1967年のシーズンまで在籍時の高田繁が打ち立てた右打者としての東京六大学野球の通算127安打に次ぐ。 1979年、慶應義塾大学卒業後、プロ入りを拒否し、創部されたばかりの社会人野球・プリンスホテルへと進む。同期入社に石毛宏典、中尾孝義、金森栄治がいる。社会人では中尾、金森の存在もあって、彼らのプロ入りまでは野手としての出場が多かった。 1982年オフに、ドラフト外で広島東洋カープに入団。入団発表記者会見で、広島の正捕手の座を掴みつつあった同学年の達川光男について「タツなんて目じゃない」と発言し、度肝を抜いた。 プロ入り1年目の1983年から控え捕手として一軍に定着するが、同年の先発出場は4試合にとどまり、主に代打での出場が多かった。1985年に登録名を堀場英孝に変更。 1986年オフに自由契約となり、広島時代の指揮官古葉監督が就任した横浜大洋ホエールズに移籍。 1987年は、4月後半から正捕手として起用され34試合に先発マスクを被る。しかしシーズン中盤には失速し、若菜嘉晴にポジションを奪還された。同年の大晦日に放送された『ビートたけしのスポーツ大将』のスピンオフ特番『元祖ビートたけしのマラソン野球』に出場し、草野球の投手相手に三振している。その後は代打としての出場が多く、1989年に再び自由契約となり、慶大の先輩藤田監督率いる読売ジャイアンツにテスト入団。 しかし、巨人では一軍出場はなく1990年限りで現役を引退。現役時代晩年には、1987年限りで引退していた江川が取材に訪れた際「まだ(現役を)やってたのか?」とからかわれたという。 引退後は1991年からベースボール・マガジン社に入社して広告の仕事に携わり、1997年からは大阪近鉄バファローズ編成部係長となるも、2000年11月に退団。アマチュア野球指導者となった。
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野球選手として
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「トニー・アルバレス」の記事における「野球選手として」の解説
1998年にピッツバーグ・パイレーツに入団。 2002年9月4日にメジャーデビューを果たす。 2006年開幕前の3月に開催された第1回WBCのベネズエラ代表に選出された。 2007年5月に、台湾・中華職業棒球大聯盟の兄弟エレファンツと契約した。打率.338、本塁打8本を記録していたが、家庭の事情により7月29日に自ら退団を申し出た。
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野球選手として
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「ラウル・モンデシー」の記事における「野球選手として」の解説
ドミニカ共和国にファーム組織「ドジャース・アカデミー」を持つロサンゼルス・ドジャースに見出され入団。1993年7月19日にメジャー初出場を果たす。初のフルシーズンとなった1994年(ストライキでシーズン短縮)は112試合に出場し打率.306、16本塁打、56打点をあげてナ・リーグ新人王に選出された。また、ドジャースは1992年 - 1996年にかけて5年連続で新人王を輩出した。順にエリック・キャロス、マイク・ピアッツァ、モンデシー、野茂英雄、トッド・ホランズワースである。 1995年には打率.285、26本塁打、そして27盗塁とスピードをアピールし、オールスター出場。ロベルト・クレメンテを思わせる強肩でゴールドグラブ賞も獲得した。 1996年には打率.297、24本塁打、88打点、14盗塁でチームのワイルドカードでのプレーオフ進出に貢献。1997年には自己最高の打率.310、そして30本塁打、32盗塁を記録して、球団史上初の「30-30クラブ」を達成した。また、モンデシーが30本塁打に到達したことで、ドジャースとしては1977年以来となる30発カルテット(ピアッツァ、キャロス、モンデシー、トッド・ジールの4人)が誕生している。 1998年にも30本塁打を打つが盗塁が16に終わるも、1999年に33本塁打、36盗塁で2度目の「30-30」を達成。その年限りでトロント・ブルージェイズに移籍。 移籍初年度の2000年は故障で96試合の出場に終わったが、それでも24本塁打、22盗塁を記録。2001年は30盗塁を記録も本塁打が27に終わり、3度目の「30-30」はならず。以後はチームを転々とし、2002年途中にニューヨーク・ヤンキース、2003年途中にアリゾナ・ダイヤモンドバックスに移籍。成績は下降気味であったが、2003年はそれでも.272、24本塁打、71打点とまずまずの活躍。 2004年2月にピッツバーグ・パイレーツと1年115万ドル(2005年はパイレーツが契約オプションを保持し、60万ドルで解雇できる)契約を結んだが、わずか26試合に出場して5月11日に、突如個人的な理由でドミニカ共和国に帰国。のちにその理由は、打撃インストラクター、マリオ・ゲレーロからの脅迫によるものと判明したが、チームからは1週間後に解雇された。10日後にアナハイム・エンゼルスと契約したが、状況が疑わしかったため、メジャーリーグ機構によって調査された。しかし故障もありわずか8試合の出場で故障者リスト入りし、7月に解雇となった。2005年はアトランタ・ブレーブスと契約したが、もはや往年の力はなく、5月下旬に解雇され、そのまま現役を引退した。 引退後の2007年5月15日、ドジャー・スタジアムでドジャース対カージナルスの試合を観戦するモンデシーの姿がスタジアムのスクリーンに映し出され、現役時代と同様「Ra-ooooo-ool!」というファンの歓声が贈られた。
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野球選手として
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粗暴な態度と歯に衣着せぬ口の悪さで有名であり、そのため周囲からは忌み嫌われ、疎まれる存在だった。カッブと長い間チームメートだったデイビー・ジョーンズも、「彼(カッブ)がスランプに陥ったときは、話しかける事なんかできなかった。(ただでさえひどい態度が)悪魔よりもひどくなっていたから」と語っている。曲がった事を嫌い、すぐに頭に血が上りやすい性格であったため、グラウンド内やプライベートでもトラブルを生むことが多く、タイガース時代はタイガースのファンからも野次を受けていた。 現役引退後も粗暴な性格は改まらなかった。元捕手だったニッグ・クラークと昔話をしている時、「現にあんたにタッチもしていないのにあんたがアウトになったことは、すくなくとも五回はあるな」とクラークが打ち明けると、怒ったカッブはクラークに殴りかかり、3人がかりでやっと止められたという。 1909年のシーズン終盤、1.5ゲーム差で首位を争うフィラデルフィア・アスレチックスとの試合で、三塁へ盗塁を試みて故意にスパイクで三塁手フランク・ベイカーの腕を刺したり、試合後半に安打を打つと迷わず二塁を目指してスライディングで二塁手エディ・コリンズに足払いをかけて転倒させたりするなど、強い闘争心と勝つためには手段を選ばない姿勢を持っていた。このことからいくつかのエピソードを残しており、有名なものに「ダッグアウトで相手にわざと見えるようにしてスパイクの歯を研いでいた」というものがある。これは「進塁先の守備を萎縮させるためにスパイクを研いで見せ、ラフプレーを印象付ける」というものであり、足の速くなかったカッブが盗塁を稼げたのはこの行為によるもの、と悪評が全米に知れ渡り「最高の技術と最悪の人格の持ち主」と形容されるようになってしまう。一方、カッブはこれについて「記者が意図的に悪評をでっちあげたもの」と自伝で完全否定している。 悪評に加え、絶好調のときのカッブは良く打つため、相手から報復とも言える行動をされることも少なくなかった。相手投手の中には危険球といえるようなボールしか投げてこない投手も多かったという。明らかなボール球をストライクと判定する審判については、選球眼に絶対の自信があったカッブはすぐさま文句を言い、審判との乱闘になることも多かった。カッブへ行われた乱暴行為は打席のみに留まらず、外野への安打で、二塁をまわった際に腰に体当たりをされて三塁打を二塁打に止められ、相手選手と乱闘になったなどの逸話もある。 対ヤンキース戦で、相手チームのレオ・ドローチャーから打席のカッブに痛烈な野次が飛んだ。野次のせいで集中力を失ったカッブは、三振を喫する。試合後、野次に怒ったカッブは凄まじい剣幕で選手控え室に乗り込み、ドローチャーに掴みかかった。ドローチャーは謝罪し、ベーブ・ルースがカッブを宥め、事態は収まった。この試合以後、ヤンキースの選手は「タイ・カッブを怒らせると、どうなるかわからない」とカッブに野次やラフプレーをしなくなったという。 プレイスタイル、顔つき、体型、言動などベーブ・ルースと対極を成す人物として挙げられることが多い。特にルースは毎日のように好物のビールとステーキを平らげ豪遊していたのに対し、カッブは徹底した体調管理を行いお金の使い方に関してもケチであったなど、生活の面でも正反対であったという。ルースが「ヒーロー」と敬われているのとは対照的に、カッブは映画や書籍などの様々なメディアで「ヒール(悪役)」として描かれている。タイトルにおいても正反対で、両者ともアメリカンリーグMVP1回だが、カッブが首位打者を12回獲得したのに対してルースも本塁打王を同じ12回獲得しており、共にMLB記録・アメリカンリーグ記録である。また、カッブが本塁打王1回・盗塁王6回に対し、ルースは首位打者1回・打点王6回を獲得している。 メジャーリーグの本塁打至上主義には批判的な見解を示し、「野球本来の面白さは、走塁や単打の応酬にある」と自らの回顧録で語っているように「スモール・ベースボール」の重要性を説いている。ベーブ・ルースとは舌戦を繰り広げたこともあり、ルースがカッブのヒット狙いの打法に対して「あんたみたいな打ち方なら、俺なら6割はいけるだろうな。でも、客は俺のけちなシングルヒットじゃなくて、ホームランを見に来ているのさ」とコメントした時には、カッブは反論し、ルースの本塁打狙いの打撃スタイルも当初は否定していた。しかしルースが本塁打を量産しつつ.376という高打率を記録したことから、次第にルースを認める評価をするようになる。ルースが打率.393で投票数満票でのMVPを獲得した時には「本塁打狙いの打撃をやめれば、4割を超えるのは間違いない」と述べ、バッティングの考え方の違いを指摘しつつ高い評価を示した。回顧録で記した『自身の選ぶオールスターチーム』のメンバーにもルースを選び、ルースの死にも「また来世で会えることを願う」という一節を記している。 カッブは人種差別主義者として広く知られている。しかし実際は黒人少年を付き人として雇ったり、ニグロリーグのデトロイト・スターズの試合に頻繁に観戦に行き、多くの黒人選手と親交があった。また、ウィリー・メイズを「私が唯一お金を払って見たい選手」と形容したり、ロイ・キャンパネラを「偉大な選手」と評価したりするなど、黒人選手を賞賛するコメントを数多く残している。カッブの人種差別主義的逸話の多くは、死後に書かれた自伝のゴーストライター、アル・スタンプ(英語版)の捏造した挿話がほとんどで、カッブの生前の記事や発言に彼が人種差別主義者だったという証拠は見つかっていない。 来日した際、中等野球に飛び入り参加して盗塁を試み、当時強肩で鳴らしていた嘉義農林の捕手に刺された。カッブはセカンドから捕手のもとへ駆け寄り、笑顔で「やるな坊主」と言い、捕手の頭を撫でたという。人種差別的な発言で有名であるとされていたカッブだが、来日した際には熱心に野球を指導していた。 カッブは野球について、「野球は男が闘志を剥き出しにして戦う、真剣勝負の場である」と述べ、自身のエゴを前面に出すプレースタイルについては「栄光を望むのは罪ではない」と語っている。選手としての自身については「私は天才ではない」と明言しており、デビューしてすぐに3割を打つような他の選手に対しては天才的だと思ったが、自分はそうではなく、一番の選手になるためにずっと弛まぬ努力をしたと語っている。打撃に関しては「バッターの資質で最も大切なのは、打席で怖がらないことだ。当てられることを恐れなければ、いいバッターになれる」と述べている。 足は速くないが相手投手の癖を盗む技術が素晴らしかった理由の一つとして、練習方法に理由があると述べている。カッブの盗塁の秘密の練習場は台所で、妻が台所で料理をしているときに、横から背中を叩いて反対側に逃げる。妻が後ろを向くまでに反対側にいけたら盗塁成功で、妻のほうが先に振り向いたら盗塁失敗。これを繰り返しているうちに、盗塁のスタートのタイミングがうまくなったと語っている。妻からは「あなたは邪魔だから台所に来ないで」と何度も怒られたという。 1942年、MLBの監督や引退した名選手らを対象に、「史上最高の選手は誰か」というアンケートが行われた。最終的に回収できた票数は102票で、得票は14人の選手に分かれることとなった。結果は半数を大きく越える60票をカッブがひとりで集め、1位を獲得した。投票に参加してカッブに1票を投じたエディ・コリンズは、理由を書く欄に「明白である」とだけ記入していたという。ほかには「カッブはすべての事を他の誰よりも上手くやることができた」と書かれた票もあった。 引退後に出場した試合で、捕手に「久し振りにバットを握るので、すっぽ抜けてしまうかもしれない。後ろにさがっていてもらえるか?」と頼み、捕手が後ろにさがると、カッブはすかさずセーフティーバントを試み、見事に成功させた。これを見ていた周りの選手は、「引退してもタイ・カッブという選手はあくまで勝利のみにこだわっている」と感心していたという。 日本プロ野球の元コミッショナーである内村祐之は、自著において、印象に残ったメジャーリーガーとしてカッブの名を挙げている。1927年の春、内村はフィラデルフィアにて、メジャーリーグ視察のためにアスレチックス対インディアンズの試合を観戦した。同年シーズンはカッブがタイガースからアスレチックスヘ移籍して1年目のシーズンであった。試合はアスレチックスが劣勢の展開となり、9回の最終回に1点をリードされたまま、アスレチックス最後の攻撃となった。この回の先頭打者であったカッブは、安打で出塁を果たす。カッブの安打にアスレチックスのベンチは沸き返った。しかし直後にカッブが相手投手の牽制球に刺され、アウトとなり、アスレチックスはそのまま敗退した。 内村はその時のカッブのプレーを見て、「4000本安打を目前にしている、あの海千山千のカッブでもあんな無駄死にをする事があると思うと、とても面白かった」と回想している一方で、「しかしそれより感心したのは、カッブのその時の態度である」と述べている。内村によると、それは文句なしのアウトであり、審判に抗議の余地はなかった。カッブは気の毒な程に項垂れ、ベンチに帰る顔がないという表情で天を仰ぎ、打ちひしがれていたという。この時のカッブは既に40歳の大ベテランであり、しかも同試合はシーズン初頭のゲームであった。それにも関わらず、カッブは前述のような真剣さと闘志を前面に出して試合に臨んでいた。内村はカッブの野球に対するこの姿勢に、当時のメジャーリーガーとしては異質で、「たいへん驚いた」と述懐している。 最後のユニフォーム姿は、1950年のテキサスリーグ開幕第1戦でダラス・イーグルスのために一役買ったときである。トリス・スピーカー、ダフィー・ルイスとともに1イニングの3分の1だけ外野守備についている。
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