野球選手としての球歴
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1937年に慶應義塾商工学校野球部のエースとして、春の選抜大会及び夏の全国大会に連続出場。春は2回戦で中京商業の野口二郎と投げ合うが0-4で敗れる。夏は東京地区予選前に右足首を亀裂骨折するが、自らギプスを壊して準決勝・決勝を投げ切る。甲子園では再び2回戦で中京商業の野口と投げ合うが、延長11回1-2で敗れた。 慶應義塾大学進学後もエースを務め、通算27試合登板10勝2敗の成績を残すが、1941年に応召される。戦後の1945年11月18日に行われた復活オール早慶戦では延長11回を投げ切り完投勝利を挙げている。 1946年にセネタースに入団し、背番号18をつける。同じく新人で明治大学出身の大下弘とともに人気を集め、この二人が漂わせる雰囲気がセネタースに都会的なカラーを与えたという。同年4月28日の対ゴールドスター戦で初登板初完封を無四球で飾ると、新人ながら30勝(22敗)防御率2.58(4位)で最多勝利のタイトルを獲得。翌1947年は7月6日対南海戦で3度に亘って野選を犯した挙げ句サヨナラ負けするなど、9度もサヨナラ敗戦を喫する。一方で、シーズンでは26勝(25敗)防御率1.74で、今度は最優秀防御率を獲得した。 1948年は6月初旬まで3勝6敗とこれまでの酷使のためか調子を落とす。さらに6月12日対中日戦では、初回に3点を失うと、6-7回で10安打を浴びて7失点、さらに8回無死から3連打を浴びてノックアウトされ、結局7回で20安打13失点の大乱調となった。シーズンでも7勝12敗に終わる。1949年は片山博と並んでチームトップの16勝を挙げるなど復調。しかし、この年から監督に就任した井野川利春の投手起用法に不満を持って白木が抗議したことをきっかけに、白木と井野川の確執が表面化。シーズン終盤には白木が連判状を持ち回って若手選手を糾合して、監督排斥運動を起こしている。 1950年は開幕戦となる3月12日の大映戦で無四球完投勝利を飾ると、3月中に全て無四球完投で3勝を記録。さらに、4月12日の毎日戦から5月8日の近鉄戦まで4試合連続無四球完投(内訳は2勝2敗)するなど、開幕から5月25日の阪急戦8回にかけて、連続74イニング無四球の当時の日本プロ野球記録を樹立する。しかし、この頃の白木は全盛期を過ぎており、球威不足を制球力で補っていたが、無四死球が40イニングを越えるあたりから記録を意識しだしたためか、早いカウントから甘いストライクを投げて安打を打たれるケースも散見された。記録を達成した阪急戦も2-4で敗れていたため、井野川から自分の記録のためにチームを犠牲にしていると批判される。白木がこれに反発すると、井野川から干されてしまい、1ヶ月近く白木は起用されなかった。シーズンでは米川泰夫(23勝)に次ぐ、14勝(13敗)防御率3.38(リーグ11位)を記録している。1951年は肩の故障により4勝(10敗)に終わる。シーズンオフに、宗教に凝ってチームの和を乱しすぎた、ことを理由に阪急ブレーブスに放出される。しかし、1952年は未勝利に終わり、同年限りで引退。
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