野球選手としての球歴とは? わかりやすく解説

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野球選手としての球歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 13:52 UTC 版)

白木義一郎」の記事における「野球選手としての球歴」の解説

1937年慶應義塾商工学校野球部エースとして春の選抜大会及び夏の全国大会連続出場。春は2回戦中京商業の野口二郎投げ合う0-4敗れる。夏は東京地区予選前に右足首を亀裂骨折するが、自らギプス壊して準決勝・決勝投げ切る。甲子園では再び2回戦中京商業の野口投げ合うが、延長111-2敗れた慶應義塾大学進学後もエース務め通算27試合登板10勝2敗の成績を残すが、1941年応召される。戦後1945年11月18日行われた復活オール早慶戦では延長11回を投げ切り完投勝利を挙げている。 1946年セネタース入団し背番号18をつける。同じく新人明治大学出身大下弘とともに人気集め、この二人漂わせる雰囲気セネタース都会的なカラー与えたという。同年4月28日の対ゴールドスター戦で初登板初完封無四球で飾ると、新人ながら30勝(22敗)防御率2.58(4位)で最多勝利タイトル獲得。翌1947年7月6日南海戦で3度亘って野選犯した挙げ句サヨナラ負けするなど、9度サヨナラ敗戦喫する一方でシーズンでは26勝(25敗)防御率1.74で、今度最優秀防御率獲得した1948年6月初旬まで3勝6敗とこれまでの酷使のためか調子を落とす。さらに6月12日対中日戦では、初回3点を失うと、6-7回で10安打浴びて7失点、さらに8回無死から3連打浴びてノックアウトされ結局7回で20安打13失点大乱調となったシーズンでも7勝12敗に終わる。1949年片山博並んでチームトップの16勝を挙げるなど復調。しかし、この年から監督就任した井野川利春投手起用法に不満を持って白木抗議したことをきっかけに、白木井野川確執表面化シーズン終盤には白木連判状持ち回って若手選手糾合して、監督排斥運動起こしている。 1950年開幕戦となる3月12日大映戦で無四球完投勝利を飾ると、3月中に全て無四球完投で3勝を記録。さらに、4月12日毎日戦から5月8日近鉄戦まで4試合連続無四球完投内訳は2勝2敗)するなど、開幕から5月25日阪急戦8回にかけて、連続74イニング無四球当時日本プロ野球記録樹立する。しかし、この頃白木全盛期過ぎており、球威不足を制球力補っていたが、無四死球40イニング越えるあたりから記録意識ししたためか、早いカウントから甘いストライク投げて安打打たれるケース散見された。記録達成した阪急戦も2-4敗れていたため、井野川から自分記録のためにチーム犠牲にしていると批判される白木がこれに反発すると、井野川から干されてしまい、1ヶ月近く白木起用されなかった。シーズンでは米川泰夫23勝)に次ぐ、14勝(13敗)防御率3.38(リーグ11位)を記録している。1951年は肩の故障により4勝(10敗)に終わる。シーズンオフに、宗教凝ってチームの和を乱しすぎた、ことを理由阪急ブレーブス放出される。しかし、1952年未勝利終わり同年限り引退

※この「野球選手としての球歴」の解説は、「白木義一郎」の解説の一部です。
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