野球選手としての経歴とは? わかりやすく解説

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野球選手としての経歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 18:07 UTC 版)

サブロクそうすけ」の記事における「野球選手としての経歴」の解説

八丈町三根小学校3年時に野球好きだった父とのキャッチボールきっかけ野球興味持ち4年から少年野球チーム投手として活躍5年まで過ごした後、家族埼玉県大宮市引っ越し現在のさいたま市立上小小学校転校八丈島ではなかなか試合ができなかったが、転校後は毎週試合ができるようになり、投手としての楽しさ覚えたという。 渋谷区立松濤中学校ではエース務め本人いわく「チーム自体はあんまりでしたが、ただ、周り見ても、僕より上回っている選手はいなかったと思います、なので、“あれ、オレ、いけるぞ”と思っていましたとのこと当時無名だった埼玉聖望学園からも誘いがあったが、プロ野球選手目指し前田三夫監督率い帝京高校進学1年先輩センバツ優勝投手巨人などで活躍した三澤興一がいた。三澤らが引退し新チームとなった2年秋の都大前に練習試合先発チャンスもらったが、いきなり3者連続四球無死満塁となった4番打者満塁弾打たれ交代しそれ以来一度マウンド上がれなかった。甲子園出場実績はない。高校卒業アルバムには「野球諦めて芸人になると書いていた。 帝京大学では野球離れその後太田プロダクション所属しお笑い芸人となるが、芸人になったも草野球定期的にプレー続けていた。 2015年10月26日ブログ独立リーグ四国アイランドリーグplusトライアウトを受けることを報告きっかけ夏の高校野球甲子園大会で、「40歳という節目目前球児たちの頑張りをみて、自分もう一度、夢を目指してもいいんじゃないかと思った」と熱く語り相方山内も「応援すると言ってくれたという。11月4日から10日にかけて行われたトライアウト参加し初の実戦形式となった登板ではエラーヒット2本で高校時代同じくいきなり無死満塁ピンチ迎えたが、後続抑え失点切り抜けた同月11日愛媛マンダリンパイレーツ合格した2016年1月20日契約合意し正式に愛媛への入団決定した当時四国IL選手原則的に副業禁止されていたが、特例として入団後芸人活動認められた。愛媛監督である弓岡敬二郎ウェブサイト寄稿した文章で、「単なる話題性だけで獲得したのではありません」と記し、トライアウトリーグでの取り組み入団後選手活動中心にするという話から「その心意気買いました」と理由説明した2016年2月2日入団記者会見行い背番号コンビ名にちなん36決定登録名は「サブロク双亮」となる。 4月2日開幕時点では「練習生」で、公式戦出場可能な選手登録には入っていなかった。監督弓岡敬二郎は、3月15日ウェブ寄稿した文章で現状先発ではなく中継ぎでの起用考えています」「対外試合投げかどうかは、調整具合見て判断する予定」と述べていた。4月9日選手登録され、4月10日巨人3軍との交流戦3-4迎えた9回表登板打者2人対戦し四球犠打で1アウト2塁となったところでわずか7球で降板したものの、デビュー登板果たしたその後9回裏に愛媛西村健太朗から2点奪いサヨナラ勝ち)。試合後「先頭打者四球というのは投手として一番やってはいけないこと。頭丸めてます。あっ、もう丸まってる!」とコメントした8月20日ホーム松山中央公園野球場おこなわれた香川オリーブガイナーズ戦で初の先発登板この先発は7月7日予告されており、当日相方山内始球式登場。4回に四球二死満塁ピンチ招いたところで降板し、勝利投手にはなれなかったがノーヒットチーム勝利を導いて試合後にはヒーローインタビュー受けた9月9日の対高知ファイティングドッグス戦で先発公式戦初めて5回を投げ抜き失点抑えて降板したが、後続選手打たれ勝利投手にはなれなかった。 最終的に2016年シーズンは9試合132/3回)に登板勝敗セーブはつかず、被安打12与四死球16(うち与死球2)、奪三振1、自責点3の防御率1.98という成績であったポストシーズンのうち、徳島インディゴソックスとのリーグチャンピオンシップでは登板機会はなかったが、年間総合優勝決めた試合後にチームメイトから胴上げ受けた群馬ダイヤモンドペガサス対戦したグランドチャンピオンシップでは、第3戦の8回、10点リード付けられ場面で登板し、2安打2四球2点失った2016年芸能活動おこない、そのためにベンチ入りできなかった試合もあった。シーズン終了後、「野球芸人仕事両立やっぱり簡単ではなかったですね。久しぶり芸能仕事に行くと、笑いの勘が鈍ってるなあと思うことがよくありました。(中略逆に野球に戻ると、今度野球の勘が鈍ってて…」と取材に対して述べている。 12月13日現役引退発表し、翌12月14日リーグから今季限りでの退団正式に発表された。リーグ発表付されコメントでは「この人生の中で、本当に楽しくて成長できた貴重な1年間でした」と述べている。引退後2019年インタビューでは、体力面と経済面苦しかったことが引退理由明かしている。

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