メジャーリーガーとして
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「ディオン・サンダース」の記事における「メジャーリーガーとして」の解説
外野手として活躍。元は高校時代の1985年6月3日のMLBドラフトでカンザスシティ・ロイヤルズから6巡目で指名されたが、契約せずにフロリダ州立大学に進学。 1988年6月1日のMLBドラフトでニューヨーク・ヤンキースから30巡目に指名されて契約し、1989年5月31日にMLBに昇格。当初、背番号18を与えられて感想を聞かれた際に、「俺を満足させる数字は200万だ」(年俸200万ドルの意)と発言し、周囲をあきれさせた。チーム内でも折り合いは悪く、ファルコンズとの契約の際には、「今後ヤンキースに戻る可能性は低い」と言われていたが、翌1990年もヤンキースでプレイする。 1990年5月22日の試合で対戦相手、シカゴ・ホワイトソックスの42歳の大ベテラン捕手、カールトン・フィスクと言い合った。この日の試合の3回一死で走者三塁の場面からサンダースが遊撃手への弱いポップフライを放ってダッグアウトまで小走りで戻り、ヤンキースファンからブーイングを浴びた。この怠慢プレーをフィスクが「ファック」という語を用いてキツく注意したが、サンダースは「奴隷制の時代はもう終わっている」と言い返した。これについてフィスクは「人種差別は関係無い。これはプロのエチケットだ」「ヤンキースのピンストライプの誇りを持ってプレーして欲しい」と後に述べている。 アメフトでその能力を遺憾なく発揮していた通り、野球でも守備と足は一流であったが、打力不足もあり、レギュラーに定着出来なかった。また、その派手な言動がチーム内外で顰蹙を買うことも多く、1991年1月30日にはアトランタ・ブレーブスに移籍。1991年にチームはワールドシリーズ出場を果たしミネソタ・ツインズに敗れはしたものも、後年のスーパーボウル出場と合わせて、「ワールドシリーズとスーパーボウルに出場した最初の選手」という称号を得た(現時点でも唯一の選手である)。 1992年には開幕から打撃好調で、前半戦はレギュラーに定着。特に序盤戦活躍し、97試合で打率.304・盗塁26を記録。三塁打14はこの年MLB全体で1位であった。この年の10月11日にはファルコンズの試合(対マイアミ・ドルフィンズ戦)に出場した後、ヘリコプターで移動してピッツバーグ・パイレーツとのリーグチャンピオンシップシリーズに出場する「同じ日に2つのプロスポーツリーグでプレーした最初の選手」に挑戦したが、野球の試合には起用されなかったために達成出来なかった。チームは2年連続でワールドシリーズ出場を果たす。今度はトロント・ブルージェイズに敗れたが、8安打を放って打率.533を記録。 1994年途中にはシンシナティ・レッズに移籍するが、この年には38盗塁を記録。翌1995年途中にサンフランシスコ・ジャイアンツに再び移籍し、この年も28盗塁を記録するが、9月にNFLカウボーイズと大型契約(先述)を結んだ時点で「NFL専念」を宣言し、一時MLBからは離れる。 しかし前言を撤回して1997年2月17日には再びレッズと契約。この年には115試合に出場して、ほぼレギュラーとしての起用で、打率こそ.273に終わったが、自己最多の56盗塁(ナショナルリーグ2位、盗塁王はトニー・ウォマック=当時パイレーツで60盗塁)を記録。この時点で30歳であった。 その後は再び野球から離れたが、2001年1月24日に再度レッズと契約。32試合に出場して打率.173しか残せなかったのを最後にMLBからは退いている。
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