大洋・西鉄軍
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1939年、V3を逸した責任を取りタイガースを退団。翌1940年には名古屋金鯱軍の監督に就任。選手層が薄く大きく負け越しチームは解散、1941年に翼軍と日本プロ野球史初の対等合併で大洋軍を結成。石本は総監督となり元翼軍監督の苅田久徳との二頭体制となる。しかし、チーム内のゴタゴタで苅田が孤立したため1942年に監督に就任しチームを指揮。スライダーを教えたエース野口二郎の40勝もあり2位と健闘。同年5月24日の対名古屋戦で、トップリーグにおける空前絶後の世界最長試合・延長28回の指揮も執った。 翌1943年、チームは福岡の鉄道会社西日本鉄道に譲渡され西鉄軍となる(本拠地は九州だったが、当時はフランチャイズ制執行以前であったため、九州での試合はなかった)。そのまま監督を続け近藤貞雄を育てるなどしたが、8チーム中5位で終わりこのチームも同年解散した。戦況が悪化したこの年の末、広島に戻り妻子を連れて高田郡有保村(現:安芸高田市向原町)に疎開。農業に勤しむ。しかし広島市内に残った父、母、弟、妹は原爆で亡くした。
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