大洋・横浜・DeNA時代とは? わかりやすく解説

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大洋・横浜・DeNA時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:13 UTC 版)

三浦大輔」の記事における「大洋・横浜・DeNA時代」の解説

1992年10月7日の対読売ジャイアンツ戦(横浜スタジアム)に、3番投手として一軍デビュー。「横浜大洋ホエールズ」としては最後公式戦で、篠塚和典から三振を奪うなど打者6人を完璧に抑えた1993年9月4日の対広島東洋カープ戦(北九州市民球場)でプロ勝利・初完投記録プロ入りしてからしばらく、ピンチになると力んだ投球してしまい失敗繰り返していたが、1994年4月22日の対広島戦横浜スタジアム)でピンチになった際にマウンド当時投手コーチだった小谷正勝から「己を知りなさい。自分どういうピッチャーなんだ。力んで150キロ出ないだろ」と言われ冷静に自分投球ができるようになり、プロ完封勝利手にする。この言葉三浦にとってプロ野球人生の軸となり、逆境立った時も自分コントロールできるようになった語っている。 1995年から先発ローテーション加わって活躍し始め1997年自身9連勝などもあって初の2勝利を挙げる10勝3敗)。7月29日対中ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)では5回まで無安打抑える快投見せるも、8回に代打出され無安打のまま降板1998年には前年活躍認められ背番号以前から自身希望していた「18」へ変更この年安定感増し8月肝機能障害1か月離脱するアクシデントはあったが自己最多となる12勝を挙げチームリーグ優勝日本一大きく貢献した。しかし西武ライオンズとの日本シリーズでは第3戦に先発したものの、球数を多く費やし6四球を出すなど苦しみ序盤降板して敗戦投手となっている。 2000年2001年チーム生え抜き先発投手陣が不調配置転換など苦しむ中で安定した成績収め押しも押されもせぬエースの座に君臨する2002年7月3日の対巨人戦で、投球中に右肘の違和感訴えて途中降板同年シーズンオフ欠けた骨を取り除く内視鏡手術行ったまた、契約更改では2003年から2008年まで6年契約結んだ2003年前年受けた手術影響もあって春季キャンプ二軍スタートとなり、開幕出遅れる2004年行われたアテネオリンピックでは、日本代表選ばれ銅メダル獲得2005年2001年11勝)以来となる2勝利12勝)を挙げプロ14年目にして初のタイトル最優秀防御率最多奪三振)を獲得し4年ぶりのチームAクラス入り貢献した28試合中23試合で7イニング以上を投げ21試合QS達成(うちHQS16試合)、10完投大活躍だった。 2006年野球規則委員会が「二段モーションなどは不正投球とする」という見解示したことから、日本野球機構もこれを承認したことでフォーム改造余儀なくされ、その影響からか前半勝ち星恵まれず8勝(12敗)に終わるも9完投、3完封、3無四球完投はいずれリーグ最多であり、自己最多2162/3と、前年続き2年連続200イニング以上を投げた。また5月9日楽天戦で通算100勝を達成2007年6月20日から同年7月27日にかけて35イニング連続失点記録し連続イニング失点球団記録更新したまた、プロ野球選手として社会貢献活動認められ第9回ゴールデンスピリット賞受賞している。 2008年シーズンオフFA権を行使した。当時球団に不満を抱えており、横浜との交渉では金額の話よりもフロント疑問点をぶつける事に時間費やした阪神タイガース三浦獲得動き三浦自身も真剣に悩んでいたが、そんな最中ファン感謝デーがあり、ファンの声を直接聞き「強いところを倒して優勝したい」と考えるようになり残留発表した横浜この頃からチーム主力選手FA移籍続いたが、他球団移籍したチームメイトについて三浦は「問題なのは球団だと思ったはっきり言って当時横浜出て行きたいチームだった」と振り返っている。 2009年失点被本塁打ともリーグ最多記録したが、3戦連続を含む6完投リーグ最多だった。2年ぶりの2勝利となる11勝を挙げた2010年開幕前のオープン戦振るわず開幕直前二軍落ちとなったその後一軍復帰した不安定な投球多く3勝8敗と不振に陥り、1994年以来16年ぶりに投球回数が100イニング下回ったこの年チーム開幕前の構想から外れた戦い強いられたことでシーズン中盤までは粘ったが、後半負け試合がさらに多くなり、3年連続最下位終わってしまった中でも自身不振大きく響いた2011年7月10日対中日戦(横浜スタジアム)に先発し勝利投手となり、19年連続勝利球団記録更新したこの年三浦開幕当初こそ二軍落ちする不本意な成績であったが、イースタン・リーグでの調整通して全身鍛えるために短距離ダッシュ繰り返すなど独自の練習調整するなか、往年の球威制球力を取戻して7月昇格するシーズン終了まで先発ローテーション守り抜きこの年チーム唯一の完投完封を含む、チーム最多タイ高崎健太郎同数)の5勝を記録した投球回数も規定投球回には達しなかったものの、2年ぶりに100イニング超えるなど健在ぶりを発揮した2012年には、4月1日の対阪神戦京セラドーム大阪)で勝利投手となり、横浜DeNAベイスターズとしての球団勝利となった7月4日の対巨人戦で、2005年8月23日以来となる2507日ぶりの巨人戦勝利となり、同時に通算150勝を達成した通算150勝を挙げて以降調子上げて前半戦は8勝を挙げ3年ぶりのオールスターゲームにも出場。チームトップの9勝を挙げリーグ最多の6完投記録した2013年には、6月12日の対ロッテ戦QVCマリン)で完封勝利し、小山正明39歳1か月での球団最年長完封記録39歳3か月更新するなどチームトップの9勝を挙げた2014年からは、投手として現役生活続けながら一軍投手コーチ兼任している。この年には開幕から4連敗喫したが、7月13日ヤクルト戦一軍公式戦22年連続勝利米田哲也に並ぶNPB歴代3位)を達成したことを皮切りに5連勝チーム後半戦巻き返し貢献した8月は1完投を含む3勝0敗、セ・リーグ唯一の防御率1点台(1.20)の活躍月間MVP選ばれた。シーズン通算では、5勝6敗と負け越しながら、チーム5位の投球回数を記録した2015年には、5月5日の対ヤクルト戦一軍でのシーズン初登板を果たすと、一軍公式戦23年連続勝利NPB最長タイ記録樹立(右投手としては新記録)。5月20日の同カードでは、一軍でのシーズン安打打ったことによって、一軍公式戦23年連続安打NPB投手新記録)を達成した。さらに5月27日の対オリックス戦にも勝利したことで、シーズン初登板からの一軍公式戦3連勝記録した三浦セ・リーグ40代投手では初めて、パシフィック・リーグ含めたNPB投手としても最年長記録であったシーズン終了後には、NPB最年長50歳)の山本昌同期入団斎藤隆45歳)など、年齢41歳自身上回る8選手相次いで現役引退三浦自身は、11月28日投手兼任コーチとしての契約更改したことによって、2016年シーズンにおけるNPB現役最年長選手になった2016年には、7月11日対中日戦(横浜)で先発投手としてシーズン初の一軍マウンド経験。4回6失点という内容敗戦投手になったが、2回裏の第1打席一軍公式戦通算122本目安打打ったことによって一軍公式戦24年連続安打野手含めたNPB歴代4位タイ記録)を達成した。さらにこの記録が「プロ野球公式戦投手安打打った最多連続年数」というギネス世界記録に認定されたため、三浦8月22日公式認定員から認定証が授与された。同年は、一軍公式戦登板しない期間も前年続いて投手コーチとして一軍遠征帯同遠征ない場合には、もっぱら二軍投手としての調整続けていた。 この年若手台頭により8月終えて一軍登板はこの1試合のみにとどまり三浦自身の中で引退決意していた。9月16日の対阪神戦甲子園)に先発投手としてシーズン2度目の一軍公式戦登板を果たすも、1回裏福留孝介本塁打2点失った末に4回1/3で降板し、シーズン2敗目を喫した三浦はこの試合後に高田繁GM現役引退申し入れ球団側も引退了承したチーム9月19日球団史上初のクライマックスシリーズ進出決めたことを受け、翌20日シーズン限りでの引退を表明した。理由を「自分では勝てなくなったから」と語り引退後の進路については「現役(生活)からは卒業するが、野球からは卒業しないので、ずっと野球に関わっていたい」と述べた球団は、三浦1998年から19年わたって着用してきた背番号18」を「横浜ナンバー」として「準永久欠番」にし、着用にふさわしいとされる選手現れ場合にのみ、球団三浦による協議経て継承認めることを発表した。その18番は、球団三浦協議した結果2022年から小園健太着用使用することが決定した三浦本拠地横浜スタジアム行われた9月29日2016年レギュラーシーズン最終戦に、先発投手として現役最後登板挑んだ。この試合ではDeNAの全選手三浦背番号18入れたユニフォーム着用三浦含め背ネームはなしの特別仕様)し、試合前に三浦長男による始球式が行われた。三浦はこの試合スタメンとして一軍初出場果たしたヤクルトルーキー廣岡大志に初打席本塁打となる3点本塁打打たれるなど6回表終了時点10失点喫したが、アレックス・ラミレス監督計らいもあって6回裏には現役最後打席に立ち(結果中飛)、次イニング続投決意。7回表のマウンドに向かう際、捕手髙城俊人から最後対戦打者への直球一本勝負提案されイニング先頭雄平から三球で空振り三振奪い降板となった三浦も6回1/3で119球を投じ8三振を奪うも、12被安打10失点自身初の2失点)という結果になった試合後に三浦引退セレモニー開催され三浦は「今は最高に気分良く、『できることなら、このまま時間止まってくれればな』と思ってます。でも、チームはやっとクライマックスシリーズ出られます。どんどんチーム変わってきて、苦しかった時を乗り越えて、やっと『横浜DeNAベイスターズ、いいチームになっただろ』とみんなに自慢できます」「横浜一筋25年来られたのも、皆さんおかげですこれからの人生も、横浜一筋来られたことを誇り頑張っていきます今シーズンをもちまして現役引退致しますけれども、これから三浦大輔ずーっと横浜です。ヨ・ロ・シ・ク!」と挨拶しチームメイトから三浦背番号にちなん18回にわたって胴上げされた。三浦引退により、横浜大洋ホエールズ所属した選手と、1998年リーグ優勝・日本一経験した選手全員引退した同時に兼任していた一軍投手コーチ退任する意向引退試合翌日9月30日)に球団伝え退団表明

※この「大洋・横浜・DeNA時代」の解説は、「三浦大輔」の解説の一部です。
「大洋・横浜・DeNA時代」を含む「三浦大輔」の記事については、「三浦大輔」の概要を参照ください。

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