大洋・横浜時代とは? わかりやすく解説

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大洋・横浜時代

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谷繁元信」の記事における「大洋・横浜時代」の解説

大洋入団後1989年に「鍛えたそのパワー」の歌い出しで始まる個人応援歌谷繁元信選手テーマ」(作詞:平タケル作曲杉本正毅、編曲:除村正人)が制作されたが、この曲は後に村田修一横浜ベイスターズ在籍時に使用された後、2021年横浜DeNAベイスターズ入団した牧秀悟個人応援歌として使用されている。なお、谷繁自身応援歌1993年球団名が「横浜ベイスターズ」に改称されたことに伴い2代目新調され1999年には3代目応援歌制作されている。 プロ1年目1989年シーズン下関球場行われたオープン戦巨人斎藤雅樹から本塁打放つなど結果を残すと監督古葉竹識抜擢ばってき)され、高卒1年目にもかかわらず開幕一軍入り果たした公式戦打席で初安打放つ1年目から一軍フル帯同し、出場80試合打率.175、3本塁打10打点という成績を残す。谷繁は「高校から入った僕はまだ子供でしたから、ケガをしないよう甘やかされいました。僕はまだ古葉さんの戦力構想中には入っていなかったのでしょう」と述べている。 1990年シーズンには、須藤豊監督就任する西武ライオンズから移籍してきた秋元宏作併用されるようになり、前年shシーズンまで正捕手だった市川和正第3捕手へと追いやられた。このプロ2年目高浦コーチ体罰受けたことに憤慨し引退申し出た須藤監督なだめられ思い留まった。 しかし1992年シーズンは、シーズン中休養した須藤代わりヘッドコーチから監督代行昇格した江尻亮秋元メイン起用した。全く打ってなかった谷繁がプロ野球という世界心底向き合って取り組まなければいけないと思い始めたのはこの時期からだという。 球団名が「横浜ベイスターズ」へ改称され1993年シーズンには「捕手だと『1』数字防具隠れて見えない」という理由から背番号を8へ変更近藤昭仁監督大矢明彦バッテリーコーチ就任し、谷繁は「僕を育てるために大矢さんが招かれたようなのだった思います」と述べている。首脳陣中にはキャッチャーとしての谷繁を見切りをつけて他のポジションへのコンバートという構想もあったが、キャッチャーとしての谷繁を推したのが大矢であった。谷繁は「前任コーチ佐野元国)からは基礎叩き込まれていたが、大矢からはさらに1段階上のレベル心構え技術教わりキャッチャーとは、何か。から始まって配球。キャッチング、スローイングブロッキングに至るまで。いま振り返れば93年横浜大洋ホエールズ横浜ベイスターズ変わって、谷繁を一人前にして要を作ろうという方針球団としてあったと思ってます。当時は、きついという思いしかなかったですが、指導者とのいい出会い恵まれました」と回顧している。それでもしばらくは秋元との併用続き先発出場していた試合でも抑え投手佐々木主浩登板すると「佐々木フォークボール取れない」「暴投時に谷繁は手で捕りに行くが、秋元身体止めに行く」との理由から秋元交代させられていた。また肩は強かったものの、リード面での評価もあまり高くはなかった。 大矢監督就任した1996年シーズンからは重点的に起用されるようになり、それに伴い打撃成長初め打率3割も記録した。翌1997年シーズン初め二桁本塁打記録リード面でも成長し投手陣成績良くなるなど、捕手として評価急上昇するシーズンオフにはFA権獲得し当時捕手不在だった巨人への移籍の噂なども囁かれたが、リーグ2位になり現実味帯びてきたチーム優勝目指し残留4年契約結んだ1998年シーズンは、開幕から本塁打打ち続け前田智徳松井秀喜に次ぐ、リーグ3位速さで2本塁打到達した最終的に14本塁打)。攻守の要としてチーム38年ぶりのリーグ優勝・日本一大きく貢献し自身初のベストナインゴールデングラブ賞受賞するなど、リーグ代表する捕手成長した。また佐々木主浩と共に最優秀バッテリー賞受賞。翌1999年シーズンマシンガン打線の8番打者として打率を残す。 2001年シーズン初めシーズン20本塁打打ちシーズンオフメジャーリーグへの移籍目指しFA宣言を行う。トニー・アタナシオ代理人契約を結び「年俸下がってでもメジャー行きたい気持ちがある」と強い決意渡米12月5日にはシアトル・マリナーズサンディエゴ・パドレスアナハイム・エンゼルス関係者らの前でワークアウト行ったが、良い条件得られなかったためメジャー挑戦断念

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大洋・横浜時代

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石井琢朗」の記事における「大洋・横浜時代」の解説

1989年4月13日広島東洋カープ戦で一軍初登板。同年10月10日ヤクルトスワローズ戦で初先発勝利を挙げる首脳陣からは「桑田二世」などと評価され投手として将来嘱望されたが、二軍イースタン・リーグ)では好投するものの一軍結果残せず、また本人篠塚和典憧れるなどプロ入り当初から野手志望であり、3年目1991年)のオフ須藤豊監督野手転向申し出る。もともと須藤石井野手として評価しており、投手不足という事情さえなければ最初から野手転向させたい意向持っていた。しかしこの時に石井は「(投手は)もう限界です」と発言。その言葉が気に入らなかった須藤に「何が限界だ、その程度限界ならもう野球をやめろ!」と一度拒絶されたものの最終的に認められた。 1992年から内野手として登録され同時に登録名本名石井忠徳から石井琢朗変更高校時代外野守った事はあったものの、内野手初挑戦で、フィールディングなどを見た首脳陣判断内野手となる。シーズン後半には野手転向1年目にして清水義之から三塁手定位置奪った野手転向1年目エラー多く打撃粗さ目立ったが、打撃高木由一守備岩井隆之走塁弘田澄男当時コーチ一から徹底的に叩き込まれ貪欲に吸収していった。 1993年チーム名横浜ベイスターズ変更されたのを機に背番号を0に変更前年比べ次第守備打撃安定し当初進藤達哉遊撃手ポジション争っていたがやがて遊撃進藤固定され自身三塁守っていた高木豊一塁追いやる形で「2番三塁手」としてレギュラー獲得し初め規定打席到達また、試合ながら中堅手としても出場した盗塁王ゴールデングラブ賞三塁手部門タイトル獲得したゴールデングラブ賞以後1995年まで3年連続受賞することとなる。 1994年には背番号を5に変更。主に2番打者として出場しフル出場を果たす。 1995年日替わり1、2番を打ち、初の打率3割を記録した同年オールスターゲーム初出場1996年、新監督就任した大矢明彦意向により、遊撃手転向した慣れない守備意識奪われたためか前年より打撃成績を落とすも、中盤より1番打者定着タイトルこそ獲得できなかったが生涯唯一の40盗塁越え記録した1997年2番打者波留敏夫との1、2コンビ定着2度目オールスター出場果たしこの年以降オールスターには5年連続して出場することになった自身2度目打率3割を記録し初めベストナイン遊撃手部門獲得する1998年選手会長就任マシンガン打線の1番打者としてチーム38年ぶりのリーグ優勝日本一貢献した7月14日巨人戦では、9回に石井エラーから同点追いつかれるが、その裏自身バットサヨナラ打放ちマシンガン打線象徴するような取られても取り返す逆転劇見せた。初の最多安打2度目盗塁王タイトル獲得し遊撃手としては自身初めてとなる、通算では4度目ゴールデングラブ賞受賞103得点記録し松井秀喜並んで球団創設以来初となる最多得点獲得する同年日本シリーズでは10月18日1回戦の初打席西武西口文也からセーフティバント決めすかさず盗塁決めるなど、勝利を呼び込む活躍見せ優秀選手選ばれた。 1999年には通算1000本安打、1000試合達成200盗塁達成このうち7月15日阪神タイガース戦で記録した1000本安打は、勝利投手経験がある選手として史上10人目記録であったこの年チーム打率.294(歴代2位)という絶好調打線の中でロバート・ローズ1試合10打点記録した7月22日ヤクルト戦で、1試合最多得点セントラル・リーグ新記録となる6得点記録し、さらに自身初の1試合2本塁打記録した2000年4度目となる盗塁王獲得した2001年には2度目最多安打記録するなど安定した成績残し遊撃手として1997年から5年連続ベストナイン受賞した2002年前年同じく140試合出場し156安打記録長嶋茂雄と並ぶ当時プロ野球記録6年連続150安打達成した。しかし、打率8年ぶりに2割8分を下回る2003年1992年以来100安打未達記録打率.231は野手転向後で最悪数字となったスターティングメンバーから外された際には、野手転向時のようにゼロからやり直すつもりで自ら二軍落ち志願した8月22日巨人戦1500本安打を記録するが、精神的にスランプ陥った年だった。 2004年2001年と同じ打率.295の成績残し3度目の2本塁打達成するなど復活果たした2005年は、全146試合に「1番・遊撃手」で先発起用されフルイニング出場を果たすものの、打率は.255に落ち込むなど再び低迷した。 2006年5月11日楽天戦(横浜スタジアムセ・パ交流戦)の1回裏第1打席愛敬尚史から中前打を放ち史上34人目2000本安打を達成した栃木県出身では初の名球会入りを果たす。横浜球団では松原誠駒田徳広以来3人目生え抜きでは松原以来2人目)の2000本安達成で、投手として勝ち星挙げた選手としては川上哲治以来史上2人目。後に川上は「私の場合プロ草創期なので石井君の1勝は10勝に匹敵する」とコメントしている。大洋時代恩師須藤豊は「(石井は)篠塚目標としていたが、これから自分目標とされるように」という祝福言葉送った本人は「残り39本でスタートしたこんなに苦し思いをするとは思わなかった、安堵感いっぱい」と泣きながら語っている。ドラフト外での入団選手としては秋山幸二以来2人目であり、現在ではドラフト外入団選手最多安打記録保持者となっている。 その後8月12日ヤクルト戦石川雅規から安打放ち松原誠の持つ球団安打記録2081本を塗り替えたこの年打順こそ2番3番打者として起用され試合もあったが、2年連続で全146試合フルイニングに出場最終的に自己最多タイ174安打放ち打率も2割8分台に乗せるなど再び復調果たした2007年前年オフに膝を手術したこともあり、この年監督復帰した大矢石井を無理せず休ませる公言4月1日巨人戦の6回の守備石川雄洋交代し連続フルイニング出場記録当時現役選手では金本知憲に続く2位339試合途切れたまた、巨人から移籍した仁志敏久が1番打者入ったことで、石井2番打者を打つことが多くなる9月5日阪神戦阪神甲子園球場)の第1打席死球を受け、右手首を骨折9月中に戦列復帰を果たすが安打数は99安打止まり4年連続通算14度目のシーズン100安打達成はならなかった。 2008年開幕戦から再び1番打者起用されたが、成績芳しくなかったため5月頃からは7番~9番打者起用されることが多くなった。同年夏に開催され北京オリンピック野球日本代表チームの正三塁手だった村田修一選出村田がいない間、若手石川雄洋三塁手定着したが、最下位独走するチーム状況考慮した大矢監督若手起用方針もあり、村田復帰後も石川遊撃手コンバートされ石井先発での出場激減した。そして同年シーズン終了間近に球団から引退勧告を受ける。石井勧告拒否し現役続行希望して球団自由契約申し出た

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大洋・横浜時代

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斎藤隆 (野球)」の記事における「大洋・横浜時代」の解説

1992年即戦力として期待されていたが、春季キャンプで肩を痛めドラフト1位注目集めていた事から無理をして投げ続けプロ初登板を果たしたものの結局怪我影響未勝利に終わる。 1993年開幕ローテーションには入れなかったが、ほどなく先発ローテーション定着し規定投球回クリアする。新人王有資格者最多の8勝を挙げたが、伊藤智仁ヤクルトスワローズ)に敗れて新人王逃した1994年レギュラーシーズンでの公式戦初登板から912/3連続被本塁打0を記録するなど好成績残したほか、オールスターゲームセントラル・リーグ監督推薦選手として初め出場した先発投手としては、好投しながら勝負どころ決定打を許すことが多く、チームトップの9勝を挙げた一方でリーグ最多12敗を記録6月24日の対読売ジャイアンツ戦では1失点完投勝利9月10日の対ヤクルト戦いずれも横浜スタジアム)では完封勝利挙げたものの、チームこの間54試合延べ193人の投手注ぎ込んだ末に「公式戦における連続完投54試合」という日本プロ野球記録達成してしまった。 1995年開幕から先発ローテーション休まず最後までただ1人守ったが、8勝止まりだった。ローテーション入りをした1993年から1995年3年間は、2勝利には届かなかった。 1996年先発投手として独り立ちさせようとした新監督大矢明彦采配により11完投をし、プロ入り初の2勝利を記録。しかし敗戦同数10敗を記録した奪三振206最多奪三振タイトルを初獲得4月には自身初の月間MVP獲得した斎藤は「大矢さんじゃなかったら匙を投げていたと思う」と開花するまで我慢して起用し続けてくれた大矢監督感謝述べている。一方で31被本塁打記録し中でも巨人松井秀喜に7本塁打打たれた。 1997年春季キャンプ中に右肘に遊離軟骨発見され除去手術を行う。チーム強くなっていた時期でもあり、リハビリ行いながら病院野球中継見て「どうして俺はあそこに立っていないんだろう」と悔し日々を送る。終盤二軍復帰登板はしたものの、一軍登板できずにシーズン終えた1998年4月5日中継ぎ投手として復帰登板し4月29日には583日ぶりの勝利を挙げる中盤以降先発復帰果たし13勝5敗1セーブ好成績38年ぶりのリーグ優勝日本一貢献日本シリーズでは史上9人目初登板初完封挙げる活躍で、優秀選手選ばれた。セ・リーグカムバック賞受賞した1999年チーム打線好調もあり自己最高の14勝を記録し敗戦数もわずか3で、勝率.824を記録した防御率悪化し3年前越え32被本塁打喫した2000年は6勝10敗、防御率5.52と前年から大きく成績落とした1999年オフ不動クローザーだった佐々木主浩フリーエージェントMLBシアトル・マリナーズ移籍して以降チーム確固とした抑え投手不在だったため、2001年就任した監督森祇晶は「俺はお前と心中する」という言葉で、当初転向難色示していた斎藤ストッパー転向させる。この転向成功し同年は7勝1敗27セーブ防御率1.67の好成績挙げ、「大魔神と言われ佐々木対し、新魔神という愛称付いた。この経験後の先再転向、そしてメジャーでの生活に活きたと本人述べている。 2002年抑え投手として活躍オフにはFAとなり、メジャーリーグへの移籍模索したが、結局3年総額7億3000万円の契約結んで横浜残留した2003年からは新監督山下大輔意向により、先発復帰し安定感欠きながらも、6勝を挙げた2004年精彩欠き、わずか2勝5敗でシーズン終えた2005年2年ぶりに投球回数が100超えたが、3勝4敗と不本意な成績シーズン終えたオフ斎藤は「たった一度でもいいからメジャー投げたい」と家族説得し再度メジャーリーグ挑戦目指し自由契約となり、ジョー・アーボンと代理人契約を結ぶ。だが36歳になる高齢であることや、この数年不振続いていたことから、斎藤興味を示す球団はなかなか見つからなかった。

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大洋・横浜時代

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有働克也」の記事における「大洋・横浜時代」の解説

1991年ドラフト3位横浜大洋ホエールズ入団し1年目から先発ローテーション投手として活躍したストレート130キロ半ばで、カーブスライダーシュートなどで打たせて取る投球持ち味だった。投球フォームオーバースローだが、1試合のうちで何球かをサイドスロー投げてバッタータイミング外しボールカウント整えた有働自身はこのサイドスローを「おちょく投法」と呼んだ1993年球団名横浜変更され以後最初開幕投手務めオールスターゲームにも出場した1994年開幕投手務めて勝利投手になり、規定投球回数満たしてチーム二位の8勝を挙げた酒好き知られ同じく酒豪だった同僚盛田幸妃と仲が良くキャンプ盛田とともに部屋スナック化しコーチ部屋いたずら電話をしたり、早朝4時後輩呼びつけて酒を飲ませるなどしながら1か月不眠で酒をあおっていたという。 以降体重増などから恒常的に精細欠き成績年々下降1996年防御率8点台とふるわず球団から戦力外通告されると、兄貴分佐々木主浩球団に猛抗議佐々木メジャーリーグへの挑戦ほのめかした

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水尾嘉孝」の記事における「大洋・横浜時代」の解説

同年度のドラフト会議では小池秀郎亜細亜大学硬式野球部とともに大学球界の左の2枚看板」と高い評価を受け、横浜大洋ホエールズから1位指名受けて入団福井工業大学からのドラフト指名選手当時4人目だったが、社会人野球経由せず直接ドラフト1位指名受けた選手水尾初だった。なお、意中大洋以外から指名され場合内定していた熊谷組就職することを表明していた。プロ1年目年俸840万円推定額)。また推定契約金額は1億円だったが、この額は当時前年近鉄バファローズ入団した野茂英雄1億2,000万円に次ぐ金額で、大洋球団としては契約金年俸とも当時最高額であったプロ入り当時は「球威スピードコントロールをすべて兼ね備えた投手なりたい」と目標掲げていたほか、尊敬する投手として桑田真澄巨人)、対戦希望する打者として落合博満中日)の名前を挙げていた。 しかし、プロ入り直前に腰を痛めプロ1年目1991年同年一軍登板はなく、二軍イースタン・リーグ)でも打ち込まれ19試合登板・6勝4敗・防御率5.69の成績終わった。翌1992年年俸740万円)は一軍入り予想され一軍戦8試合登板したが、0勝3敗・防御率5.04の成績終わった球団名が「横浜ベイスターズ」に改称され1993年年俸740万円)は、4月22日の対広島東洋カープ戦で先発登板したが、打者4人相手に一死取れず3被安打・1死球・4失点成績終わって降板し、そのまま二軍落ちした。1994年年俸720万円)は二軍イ・リーグ)で10勝を挙げて最多勝利投手となったが、一軍では11試合登板・0勝1敗・防御率6.28の成績に終わる。また大洋・横浜時代は故障により満足な投球ができなかった中で、当時監督からサイドスロー転向命じられたが、「自分後悔する」と考えてこれを拒否したところ、二軍でも練習をさせてもらえなくなった。しかしこのころバッテリーコーチ指導乞うたところ、そのコーチから「力任せに投げるな」と指摘を受け、フォーム改造取り組んだ

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屋鋪要」の記事における「大洋・横浜時代」の解説

プロ入り1年目から1軍試合出場し4月4日ホーム開幕戦となる巨人戦代走デビューを飾る。プロ入り当時飛距離自信持っていたが、大洋先輩である松原誠田代富雄打撃見て、これには敵わないプロとして生き抜く道を模索していたところ、2年目左手首を痛めたのを機に、屋鋪の足の速さ目を付けた別当薫監督指示右打ちからスイッチヒッター転向した以降怪我をしてからウエイトトレーニング重ね陸上専門トレーニングコーチ指導のもと短距離トレーニング続けていった結果、さらに足が速くなっていったスイッチヒッターになってからは「ボール叩きつけて内野安打狙え」と指導されるようになる打撃向上せず1982年から監督就任した関根潤三打撃基本であるレベルスイング指導するうになると、左打席での打撃上達し1984年には打率.305を記録する1985年からは、高木豊加藤博一と共にスーパーカートリオ」として活躍した当時監督であった近藤貞雄命名したのは「スポーツカートリオ」で、以降マスコミによって「スーパーカートリオ」と名付けられる様になるスーパーカートリオ結成以前は1番を打つことが多かったが、スーパーカートリオ結成時では3番任された。引退後、この起用について「豊さんはヒットを打つのが上手いから1番なのはわかる。加藤さん小技もできるから2番いいとして、僕が3番を打つのは無理だ思った」と語っていたが、結成1年目キャリア唯一の2ケタ本塁打記録している。2番打った加藤3番バッターの屋鋪に対して打席粘ってくれたよね。屋鋪が打席に入ると初球ら行けるような態勢作ってくれた」と語っている。 その後加藤に代わって高橋眞裕2番入ったニュースーパーカートリオでは、高木豊3番、屋鋪が1番に落ち着いた1986年から1988年まで3年連続盗塁王獲得右中間左中間飛球テレビカメラボールしか映っていない場面で落下直前に突然画面内に現れ捕球してしまう守備範囲広さプレースタイル忍者連想させたことから、名字掛けてマスコミから「忍者屋敷」とあだ名されていた。 しかし、当時プロ野球グラウンドスパイクの歯が刺さらないほど硬かったため身体への負担大きく1992年には左膝を、翌1993年には右膝を手術し走塁での活躍陰り見せていく。球団名横浜ベイスターズとなった1993年オフ大洋時代からの看板選手たち大量に解雇され、屋鋪も自由契約宣告されて「ゴミゴミ箱捨てるみたいに」と報道陣の前で悔しがった。この大量解雇横浜FA駒田徳広獲得するためと言われ当時わだかまり噂されたが、駒田とは引退後番組共演し野球教室一緒にする仲である。横浜解雇されたことにより、予てから屋鋪の外野守備高く評価していた巨人長嶋茂雄監督すぐさま獲得打診し1994年読売ジャイアンツ巨人)へ移籍した

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進藤達哉」の記事における「大洋・横浜時代」の解説

1988年新人ながら初の一軍昇格同学年で、大洋同期入団した盛田幸妃野村弘も、高卒新人一軍昇格果たした)。 1989年からは控えとして一軍定着1992年には高橋雅裕から遊撃手定位置奪ってレギュラー定着し二桁本塁打記録1993年には就任した近藤昭仁監督現役時着けていた背番号1を正遊撃手として受け継ぎ、初の規定打席到達した1994年多くを1番打者として出場中盤右肩故障し新人波留敏夫ポジション奪われるシーズン終盤復帰1995年は主に下位打線出場して自身二度目規定打席到達1996年、新監督大矢明彦内野コンバート案によって、3年連続三塁手としてゴールデングラブ賞受賞していた石井琢朗遊撃手に、ロバート・ローズ二塁手から三塁手に、そして進藤二塁手コンバートされたが、二塁手となったことで送球が逆スローになった影響から背筋痛めローズ三塁失策多発したため、ローズ二塁戻し進藤三塁収まった。しかしその後怪我続き規定打席には届かなかった。 1997年から1999年まで3連続三塁手部門ゴールデングラブ賞獲得1997年開幕から好調で、打率上位ランキングされていたが、頭部死球受けた後は失速する1998年7月8日阪神タイガース戦、前日7日シーズン失点記録連続セーブ記録途切れたクローザー佐々木主浩前日続き1アウト2塁のピンチ招き矢野輝弘三遊間ヒット性の打球打たれるチーム絶対的な勝ちパターン揺らいだシーズンターニング・ポイントともなった場面であったが、三塁手進藤ゴロ横っ飛び好捕をして即座に一塁送球アウトにしてチーム危機救った7月2日広島戦左腕死球を受けスタメンから外れており、このプレー左腕強打して痛みでしばらく立ち上がれなかったが、本人後日「目を瞑って飛び込んだ入ったという感じ」と平然と言い放った)。石井ローズ駒田徳広とともに当時12球団でも随一守備力呼ばれた横浜内野陣の三塁手として、好守チーム38年ぶりのリーグ優勝・日本一貢献打撃でもいずれも生涯自己最高となる打率.241、14本塁打54打点記録しリーグ優勝決定試合でも勝利打点叩き出すなど、マシンガン打線一員として活躍した1999年アルキメデス・ポゾ加入によってスタメン外れることが多くなり規定打席未達に終わるも、打率.286を記録当時チーム打率日本記録叩き出した打線7番打者として活躍したオフにはFA宣言し、オリックス・ブルーウェーブ西武ライオンズ千葉ロッテマリーンズ獲得乗り出した11月11日横浜との残留交渉はわずか20分で終了17日オリックス編成から連絡入り電話1時間以上交渉二塁手としての出場強く希望していた進藤対しオリックスゴールデングラブ獲得した三塁手としての起用予定しており、途中でオリックス監督仰木彬伺いを立てながらの交渉破談オリックスとはこの電話交渉のみでテーブルにつくことはなかった。西武ロッテも既に編成終了していたこともあり、「三塁をやるなら横浜でいい。嫌いになって出ようとしたわけではないから」と、一転して横浜残留したこの年移籍濃厚だったため翌2000年球団カレンダー発注に間に合わず進藤写真掲載されなかった。これに伴い当時横浜へのFA移籍最有力視されていた江藤智は、三塁手ポジション重なってしまうことから、読売ジャイアンツへと移籍することになった2000年右足首の故障加えて欠場中の代役入った金城龍彦首位打者および新人王に輝く活躍をみせてポジション奪われてしまい、わずか59試合出場打率.224、2本塁打にとどまる。ちなみに同年本拠地最終戦チームシーズン最終戦でもあった)では、ロバート・ローズが既に帰国していたこともあってもともと自身希望していた二塁手スタメン出場するという皮肉もあった。

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大洋・横浜時代

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石田文樹」の記事における「大洋・横浜時代」の解説

大洋では一軍でも二軍でも主に中継ぎ投手としての起用多かった1989年8月29日対中ドラゴンズ戦で一軍での初登板を果たし9月9日の対阪神タイガース戦で一軍での初勝利を挙げた1990年は主に中継ぎとして17試合登板防御率2.86と結果を残すが、その後登板機会減少チームの名前が「横浜ベイスターズになってからは背番号が「52」に変更二軍中継ぎ投手として起用されていた。 1994年には登録名本名の「石田文樹」から「石田大也」に変更したが、同年限り現役引退

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佐々木主浩」の記事における「大洋・横浜時代」の解説

入団当時監督須藤豊は「チームで最もいい投手抑え務めるべきである」という考えから、看板投手遠藤一彦抑え起用していたため、1年目1990年16試合登板したが、先発で7試合登板した同年は2勝4敗2セーブ防御率5.85の成績終わった1991年シーズン序盤までは先発起用されることもあったが先発投手として中盤球威落ちスタミナ面で課題が残る投手であった。しかし遠藤故障離脱により抑え抜擢された所、安定した成績収め定着速球落差のあるフォークボール武器に高い奪三振率記録8月28日の対広島東洋カープ戦の9回、見逃し5球、空振り4球、ファウルなしの「三者連続3球三振」を達成している。同年58試合117イニング規定投球回数130イニング)に登板し、6勝9敗17セーブ防御率2.00好成績を残す活躍見せたシーズン終盤小谷正勝コーチから「先発で2試合ぐらいいけるだろう」と最優秀防御率タイトルを狙うよう提案され須藤監督直談判したが断られた。同タイトル広島佐々岡真司投手が2.44で獲得した1992年には開幕から1年間ストッパー努め初タイトルである最優秀救援投手に輝く。この年中継ぎ盛田幸妃から佐々木への継投リレー確立された。 1993年夏場故障した影響38試合で3勝6敗20セーブ防御率3.27と今一つ成績終わった同年オフ契約更改の席で200万円ダウン年俸5300万円提示されたことに怒り態度見せトレード直訴、各球団争奪戦かと報じられた。一時福岡ダイエーホークス有力とも言われ横浜球団最初引き留め姿勢見せてなかったが、後に「絶対出さない」という態度転じ球団によってトレード交渉当面凍結という宣言出され、また当時監督近藤昭仁説得もあって結局は残留という形で決着した1994年キャンプ時に肘を故障し手術することとなり前半戦を棒に振る。その間抑え投手の座を盛田譲った夏場一軍復帰してからは再び抑えになり、9月18日広島戦で7者連続三振記録している。この当時サンケイスポーツ読売ジャイアンツ巨人担当記者佐々木を(敵チームから見て)「悪魔守護神」を略した魔神」と表現するまた、佐々木風貌大映劇中キャラクター、「大魔神」に似ていることも相まり、「ハマの大魔神」というあだ名定着した1995年抑え投手として完全復活遂げ自身初となる30セーブ越え防御率1点台を記録し3年ぶりに最優秀救援投手獲得する7月8日ヤクルト戦史上最速となる500奪三振達成地元横浜開催となったオールスターファン投票選出され先発登板パ・リーグ先頭打者イチローとの対決話題となったオフには横浜生え抜き投手として初の1億プレイヤーとなる。 1996年2年連続となる最優秀救援投手獲得。しかし、この年シーズンオフ球団有働勝次解雇したことに怒りメジャー・リーグへの移籍示唆する。またシーズンオフには自主トレーニング先のサイパン島不祥事起こすといったこともあった。 1997年シーズン前雑音封印するかのように奮起しシーズン無敗防御率0点台の活躍見せチーム2位躍進貢献3年連続の最優秀救援獲得。特にチーム急上昇した8月プロ野球記録となる月間14セーブ挙げ月間MVP獲得している。シーズンオフには約1億5000万円アップ年俸3億3000万円で更改1998年父親一周忌でもある7月7日に(1996年8月31日以来の)675日ぶりの敗戦記録するまでシーズン自責点0を続ける。結局敗戦その1敗のみで、登板51試合30セーブ以上挙げた投手中でも歴代トップ防御率0.64(自責点4)という安定感ある成績残し史上初の40セーブ越えであり当時プロ野球記録で、135試合制の記録として歴代最多となる45セーブ当時公式記録46セーブポイント日本記録)を挙げ4年連続となる最優秀救援投手賞獲得して横浜優勝大きく貢献した優勝決定直前10月2日にはナゴヤドーム2位中日最後直接対決で7連勝目となる勝利を決めたが、この時には9回裏に佐々木登板した際、敗北決定づけられ優勝絶望的になった中日ファンが「中日への怒りの声」として佐々木への大声援を上げた10月8日リーグ優勝決めた阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)にも9回裏に抑え登板し新庄剛志から三振奪って胴上げ投手となった佐々木は後に自らこの試合を「ベストゲーム」としている。この年シーズンセーブセーブポイント数の日本記録加え6月4日巨人戦鹿取義隆抜いて通算217セーブポイント日本新記録当時)、6月17日阪神戦17試合連続セーブ日本新記録6月30日広島戦22試合連続セーブポイント日本新記録8月5日阪神戦江夏豊抜いて通算194セーブ日本新記録当時)、8月7日広島戦プロ野球史上初の2年連続30セーブ達成するなど、日本記録ラッシュ続いた6月9月月間MVP獲得している。9月19日には、横浜優勝祈願して横浜駅東口地下街ポルタ内に、佐々木フォークボール握り再現したブロンズ像を「ご神体」とした「ハマの大魔神社」が設置され、翌1999年1月17日撤去されるまでの間に約1660万円お賽銭集まった一方で当時横浜38年ぶりの優勝球団そのもの優勝慣れしていなかったため、リーグ優勝ビールかけでは通常常温ビールを使うところをキンキン冷えたビール用意してしまい、そのせいで佐々木風邪を引き日本シリーズでは38.3高熱出しながらの登板となったフラフラになりながらの登板投球に本来のキレがないものの抑え続け第6戦で金村義明併殺打打ち取って胴上げ投手となり、MVPをはじめ、正力松太郎賞日本プロスポーツ大賞受賞シーズンオフにはイチローとともにプロ野球史上初め年俸5億円に達した。また「ハマの大魔神」はこの年新語・流行語大賞受賞するなど、社会現象となるほどの活躍見せた1999年FA権取得しメジャー移籍可能になるシーズン中故障し戦線離脱するが、シーズン中にもかかわらず手術受けたことに対して球団不信感持ち佐々木移籍匂わせるような発言をした。結局この年長期離脱響いて23試合登板終わり19セーブに留まったが、防御率は1.93とこの年安定感抜群だったオフトニー・アタナシオ代理人とし、11月1日FA権を行使してMLB挑戦を表明し、12月18日にはシアトル・マリナーズ総額1200ドル出来高3年契約4年目年俸500ドル球団オプション)を結ぶ。当時マリナーズ筆頭オーナーであった任天堂山内溥は「メジャーリーグピカチュウになってほしい」とコメントしたメジャー移籍後横浜球団背番号22を他の選手渡したのは、佐々木行動対す失望不信感からだとされている。佐々木日本一になった年のオフ球団に「メジャー行きたい」と訴えたが、強引に引き留められた。

※この「大洋・横浜時代」の解説は、「佐々木主浩」の解説の一部です。
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