大洋・横浜時代
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大洋入団後の1989年に「鍛えたそのパワー」の歌い出しで始まる個人応援歌「谷繁元信選手のテーマ」(作詞:平タケル、作曲:杉本正毅、編曲:除村正人)が制作されたが、この曲は後に村田修一の横浜ベイスターズ在籍時に使用された後、2021年に横浜DeNAベイスターズに入団した牧秀悟の個人応援歌として使用されている。なお、谷繁自身の応援歌は1993年に球団名が「横浜ベイスターズ」に改称されたことに伴い、2代目に新調され、1999年には3代目の応援歌が制作されている。 プロ1年目の1989年シーズンは下関球場で行われたオープン戦で巨人・斎藤雅樹から本塁打を放つなど結果を残すと監督の古葉竹識に抜擢(ばってき)され、高卒1年目にもかかわらず開幕一軍入りを果たした。公式戦初打席で初安打を放つと1年目から一軍にフル帯同し、出場80試合、打率.175、3本塁打、10打点という成績を残す。谷繁は「高校から入った僕はまだ子供でしたから、ケガをしないように甘やかされていました。僕はまだ古葉さんの戦力構想の中には入っていなかったのでしょう」と述べている。 1990年シーズンには、須藤豊が監督に就任すると西武ライオンズから移籍してきた秋元宏作と併用されるようになり、前年のshシーズンまで正捕手だった市川和正は第3捕手へと追いやられた。このプロ2年目に高浦コーチに体罰を受けたことに憤慨し、引退を申し出たが須藤監督になだめられて思い留まった。 しかし1992年シーズンは、シーズン中に休養した須藤に代わりヘッドコーチから監督代行に昇格した江尻亮は秋元をメインで起用した。全く打ってなかった谷繁がプロ野球という世界に心底向き合って取り組まなければいけないと思い始めたのはこの時期からだという。 球団名が「横浜ベイスターズ」へ改称された1993年シーズンには「捕手だと『1』の数字が防具に隠れて見えない」という理由から背番号を8へ変更。近藤昭仁が監督、大矢明彦がバッテリーコーチに就任し、谷繁は「僕を育てるために大矢さんが招かれたようなものだったと思います」と述べている。首脳陣の中にはキャッチャーとしての谷繁を見切りをつけて他のポジションへのコンバートという構想もあったが、キャッチャーとしての谷繁を推したのが大矢であった。谷繁は「前任コーチ(佐野元国)からは基礎を叩き込まれていたが、大矢からはさらに1段階上のレベルの心構え、技術を教わり、キャッチャーとは、何か。から始まって配球。キャッチング、スローイング、ブロッキングに至るまで。いま振り返れば、93年に横浜大洋ホエールズが横浜ベイスターズに変わって、谷繁を一人前にして要を作ろうという方針が球団としてあったと思っています。当時は、きついという思いしかなかったですが、指導者とのいい出会いに恵まれました」と回顧している。それでもしばらくは秋元との併用が続き、先発出場していた試合でも抑え投手の佐々木主浩が登板すると「佐々木のフォークボールが取れない」「暴投時に谷繁は手で捕りに行くが、秋元は身体で止めに行く」との理由から秋元に交代させられていた。また肩は強かったものの、リード面での評価もあまり高くはなかった。 大矢が監督に就任した1996年シーズンからは重点的に起用されるようになり、それに伴い、打撃も成長。初めて打率3割も記録した。翌1997年シーズンは初めて二桁本塁打を記録。リード面でも成長し、投手陣の成績が良くなるなど、捕手としての評価が急上昇する。シーズンオフにはFA権を獲得し、当時正捕手が不在だった巨人への移籍の噂なども囁かれたが、リーグ2位になり現実味が帯びてきたチーム優勝を目指し、残留。4年契約を結んだ。 1998年シーズンは、開幕から本塁打を打ち続け、前田智徳、松井秀喜に次ぐ、リーグ3位の速さで2桁本塁打に到達した(最終的には14本塁打)。攻守の要としてチーム38年ぶりのリーグ優勝・日本一に大きく貢献し、自身初のベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞するなど、リーグを代表する捕手に成長した。また佐々木主浩と共に最優秀バッテリー賞も受賞。翌1999年シーズンもマシンガン打線の8番打者として高打率を残す。 2001年シーズンは初めてシーズン20本塁打を打ち、シーズンオフにメジャーリーグへの移籍を目指しFA宣言を行う。トニー・アタナシオと代理人契約を結び「年俸が下がってでもメジャーに行きたい気持ちがある」と強い決意で渡米。12月5日にはシアトル・マリナーズとサンディエゴ・パドレス、アナハイム・エンゼルスの関係者らの前でワークアウトを行ったが、良い条件が得られなかったためメジャー挑戦を断念。
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大洋・横浜時代
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1989年4月13日、広島東洋カープ戦で一軍初登板。同年10月10日のヤクルトスワローズ戦で初先発初勝利を挙げる。首脳陣からは「桑田二世」などと評価され、投手として将来を嘱望されたが、二軍(イースタン・リーグ)では好投するものの一軍で結果を残せず、また本人も篠塚和典に憧れるなどプロ入り当初から野手志望であり、3年目(1991年)のオフに須藤豊監督に野手転向を申し出る。もともと須藤も石井を野手として評価しており、投手不足という事情さえなければ最初から野手転向させたい意向を持っていた。しかしこの時に石井は「(投手は)もう限界です」と発言。その言葉が気に入らなかった須藤に「何が限界だ、その程度で限界ならもう野球をやめろ!」と一度は拒絶されたものの最終的には認められた。 1992年から内野手として登録され、同時に登録名を本名の石井忠徳から石井琢朗に変更。高校時代に外野を守った事はあったものの、内野手は初挑戦で、フィールディングなどを見た首脳陣の判断で内野手となる。シーズン後半には野手転向1年目にして清水義之から三塁手の定位置を奪った。野手転向1年目はエラーも多く打撃も粗さが目立ったが、打撃は高木由一、守備は岩井隆之、走塁は弘田澄男と当時のコーチに一から徹底的に叩き込まれ貪欲に吸収していった。 1993年、チーム名が横浜ベイスターズに変更されたのを機に背番号を0に変更。前年に比べ次第に守備も打撃も安定し、当初は進藤達哉と遊撃手のポジションを争っていたがやがて遊撃は進藤に固定され、自身は三塁を守っていた高木豊を一塁に追いやる形で「2番・三塁手」としてレギュラーを獲得し、初めて規定打席に到達。また、数試合ながら中堅手としても出場した。盗塁王とゴールデングラブ賞三塁手部門のタイトルを獲得した。ゴールデングラブ賞は以後、1995年まで3年連続で受賞することとなる。 1994年には背番号を5に変更。主に2番打者として出場し、フル出場を果たす。 1995年は日替わりで1、2番を打ち、初の打率3割を記録した。同年のオールスターゲームに初出場。 1996年、新監督に就任した大矢明彦の意向により、遊撃手に転向した。慣れない守備に意識を奪われたためか前年より打撃成績を落とすも、中盤より1番打者に定着。タイトルこそ獲得できなかったが生涯唯一の40盗塁越えを記録した。 1997年は2番打者・波留敏夫との1、2番コンビが定着。2度目のオールスター出場を果たし、この年以降オールスターには5年連続して出場することになった。自身2度目の打率3割を記録し、初めてベストナインを遊撃手部門で獲得する。 1998年、選手会長に就任。マシンガン打線の1番打者としてチーム38年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献した。7月14日の巨人戦では、9回に石井のエラーから同点に追いつかれるが、その裏自身のバットでサヨナラ打を放ち、マシンガン打線を象徴するような取られても取り返す逆転劇を見せた。初の最多安打と2度目の盗塁王のタイトルを獲得し、遊撃手としては自身初めてとなる、通算では4度目のゴールデングラブ賞を受賞。103得点を記録し、松井秀喜と並んで球団創設以来初となる最多得点を獲得する。同年の日本シリーズでは10月18日の1回戦の初打席、西武の西口文也からセーフティバントを決め、すかさず盗塁を決めるなど、勝利を呼び込む活躍を見せ優秀選手に選ばれた。 1999年には通算1000本安打、1000試合達成、200盗塁達成。このうち、7月15日の阪神タイガース戦で記録した1000本安打は、勝利投手の経験がある選手として史上10人目の記録であった。この年、チーム打率.294(歴代2位)という絶好調の打線の中でロバート・ローズが1試合10打点を記録した7月22日のヤクルト戦で、1試合最多得点のセントラル・リーグ新記録となる6得点を記録し、さらに自身初の1試合2本塁打も記録した。 2000年は4度目となる盗塁王を獲得した。 2001年には2度目の最多安打を記録するなど安定した成績を残し、遊撃手として1997年から5年連続でベストナインを受賞した。 2002年は前年と同じく140試合に出場し、156安打を記録。長嶋茂雄と並ぶ当時プロ野球記録の6年連続150安打を達成した。しかし、打率は8年ぶりに2割8分を下回る。 2003年は1992年以来の100安打未達を記録。打率.231は野手転向後では最悪の数字となった。スターティングメンバーから外された際には、野手転向時のようにゼロからやり直すつもりで自ら二軍落ちを志願した。8月22日の巨人戦で1500本安打を記録するが、精神的にもスランプに陥った年だった。 2004年は2001年と同じ打率.295の成績を残し、3度目の2桁本塁打も達成するなど復活を果たした。 2005年は、全146試合に「1番・遊撃手」で先発起用されフルイニング出場を果たすものの、打率は.255に落ち込むなど再び低迷した。 2006年5月11日、楽天戦(横浜スタジアム、セ・パ交流戦)の1回裏第1打席で愛敬尚史から中前打を放ち、史上34人目の2000本安打を達成した。栃木県出身では初の名球会入りを果たす。横浜球団では松原誠・駒田徳広以来3人目(生え抜きでは松原以来2人目)の2000本安打達成で、投手として勝ち星を挙げた選手としては川上哲治以来史上2人目。後に川上は「私の場合はプロ草創期なので石井君の1勝は10勝に匹敵する」とコメントしている。大洋時代の恩師須藤豊は「(石井は)篠塚を目標としていたが、これからは自分が目標とされるように」という祝福の言葉を送った。本人は「残り39本でスタートしたがこんなに苦しい思いをするとは思わなかった、安堵感でいっぱい」と泣きながら語っている。ドラフト外での入団選手としては秋山幸二以来2人目であり、現在ではドラフト外入団選手で最多安打記録保持者となっている。 その後、8月12日のヤクルト戦で石川雅規から安打を放ち、松原誠の持つ球団安打記録2081本を塗り替えた。この年は打順こそ2番、3番打者として起用された試合もあったが、2年連続で全146試合フルイニングに出場。最終的には自己最多タイの174安打を放ち、打率も2割8分台に乗せるなど再び復調を果たした。 2007年は前年オフに膝を手術したこともあり、この年監督に復帰した大矢は石井を無理せず休ませると公言。4月1日の巨人戦の6回の守備で石川雄洋と交代し、連続フルイニング出場記録が当時の現役選手では金本知憲に続く2位の339試合で途切れた。また、巨人から移籍した仁志敏久が1番打者に入ったことで、石井は2番打者を打つことが多くなる。9月5日、阪神戦(阪神甲子園球場)の第1打席で死球を受け、右手首を骨折。9月中に戦列復帰を果たすが安打数は99安打に止まり、4年連続・通算14度目のシーズン100安打達成はならなかった。 2008年は開幕戦から再び1番打者で起用されたが、成績が芳しくなかったため5月頃からは7番~9番打者で起用されることが多くなった。同年夏に開催された北京オリンピックの野球日本代表にチームの正三塁手だった村田修一が選出。村田がいない間、若手の石川雄洋が三塁手に定着したが、最下位を独走するチーム状況を考慮した大矢監督の若手起用の方針もあり、村田復帰後も石川は遊撃手にコンバートされ、石井は先発での出場が激減した。そして同年シーズン終了間近に球団から引退勧告を受ける。石井は勧告を拒否し、現役続行を希望して球団に自由契約を申し出た。
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大洋・横浜時代
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1992年、即戦力として期待されていたが、春季キャンプで肩を痛め、ドラフト1位と注目を集めていた事から無理をして投げ続け、プロ初登板を果たしたものの結局怪我の影響で未勝利に終わる。 1993年、開幕ローテーションには入れなかったが、ほどなく先発ローテーションに定着し規定投球回をクリアする。新人王有資格者中最多の8勝を挙げたが、伊藤智仁(ヤクルトスワローズ)に敗れて新人王を逃した。 1994年、レギュラーシーズンでの公式戦初登板から91回2/3連続被本塁打0を記録するなど好成績を残したほか、オールスターゲームにセントラル・リーグの監督推薦選手として初めて出場した。先発投手としては、好投しながら勝負どころで決定打を許すことが多く、チームトップの9勝を挙げた一方でリーグ最多の12敗を記録。6月24日の対読売ジャイアンツ戦では1失点完投勝利、9月10日の対ヤクルト戦(いずれも横浜スタジアム)では完封勝利を挙げたものの、チームはこの間の54試合で延べ193人の投手を注ぎ込んだ末に「公式戦における連続無完投54試合」という日本プロ野球記録を達成してしまった。 1995年、開幕から先発ローテーションを休まず最後までただ1人守ったが、8勝止まりだった。ローテーション入りをした1993年から1995年の3年間は、2桁勝利には届かなかった。 1996年、先発投手として独り立ちさせようとした新監督の大矢明彦の采配により11完投をし、プロ入り初の2桁勝利を記録。しかし敗戦も同数の10敗を記録した。奪三振数206で最多奪三振のタイトルを初獲得。4月には自身初の月間MVPも獲得した。斎藤は「大矢さんじゃなかったら匙を投げていたと思う」と開花するまで我慢して起用し続けてくれた大矢監督に感謝を述べている。一方で31被本塁打を記録し、中でも巨人の松井秀喜に7本塁打を打たれた。 1997年、春季キャンプ中に右肘に遊離軟骨が発見され、除去手術を行う。チームが強くなっていた時期でもあり、リハビリを行いながら病院で野球中継を見て「どうして俺はあそこに立っていないんだろう」と悔しい日々を送る。終盤二軍で復帰登板はしたものの、一軍登板できずにシーズンを終えた。 1998年、4月5日に中継ぎ投手として復帰登板し、4月29日には583日ぶりの勝利を挙げる。中盤以降先発に復帰を果たし、13勝5敗1セーブの好成績で38年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献。日本シリーズでは史上9人目の初登板初完封を挙げる活躍で、優秀選手に選ばれた。セ・リーグのカムバック賞を受賞した。 1999年、チーム打線の好調もあり自己最高の14勝を記録し、敗戦数もわずか3で、勝率.824を記録したが防御率は悪化し、3年前を越える32被本塁打を喫した。 2000年は6勝10敗、防御率5.52と前年から大きく成績を落とした。 1999年オフに不動のクローザーだった佐々木主浩がフリーエージェントでMLBのシアトル・マリナーズへ移籍して以降、チームに確固とした抑え投手が不在だったため、2001年に就任した新監督の森祇晶は「俺はお前と心中する」という言葉で、当初転向に難色を示していた斎藤をストッパーに転向させる。この転向は成功し、同年は7勝1敗27セーブ、防御率1.67の好成績を挙げ、「大魔神」と言われた佐々木に対し、新魔神という愛称も付いた。この経験が後の先発再転向、そしてメジャーでの生活に活きたと本人は述べている。 2002年も抑え投手として活躍。オフにはFAとなり、メジャーリーグへの移籍を模索したが、結局3年総額7億3000万円の契約を結んで横浜に残留した。 2003年からは新監督の山下大輔の意向により、先発に復帰し、安定感を欠きながらも、6勝を挙げた。 2004年は精彩を欠き、わずか2勝5敗でシーズンを終えた。 2005年は2年ぶりに投球回数が100を超えたが、3勝4敗と不本意な成績でシーズンを終えた。オフ、斎藤は「たった一度でもいいからメジャーで投げたい」と家族を説得し、再度メジャーリーグ挑戦を目指して自由契約となり、ジョー・アーボンと代理人契約を結ぶ。だが36歳になる高齢であることや、この数年不振が続いていたことから、斎藤に興味を示す球団はなかなか見つからなかった。
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大洋・横浜時代
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1991年のドラフト3位で横浜大洋ホエールズに入団し、1年目から先発ローテーション投手として活躍した。 ストレートは130キロ台半ばで、カーブやスライダー、シュートなどで打たせて取る投球が持ち味だった。投球フォームはオーバースローだが、1試合のうちで何球かをサイドスローで投げてバッターのタイミングを外し、ボールカウントを整えた。有働自身はこのサイドスローを「おちょくり投法」と呼んだ。 1993年に球団名が横浜へ変更されて以後最初の開幕投手を務め、オールスターゲームにも出場した。1994年も開幕投手を務めて勝利投手になり、規定投球回数も満たしてしチーム二位の8勝を挙げた。 酒好きで知られ、同じく酒豪だった同僚の盛田幸妃と仲が良く、キャンプで盛田とともに部屋をスナック化し、コーチの部屋へいたずら電話をしたり、早朝の4時に後輩を呼びつけて酒を飲ませるなどしながら、1か月間不眠で酒をあおっていたという。 以降は体重増などから恒常的に精細を欠き、成績は年々下降。1996年は防御率8点台とふるわず、球団から戦力外通告されると、兄貴分の佐々木主浩が球団に猛抗議。佐々木はメジャーリーグへの挑戦もほのめかした。
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大洋・横浜時代
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同年度のドラフト会議では小池秀郎(亜細亜大学硬式野球部)とともに「大学球界の左の2枚看板」と高い評価を受け、横浜大洋ホエールズから1位指名を受けて入団。福井工業大学からのドラフト指名選手は当時4人目だったが、社会人野球を経由せず直接ドラフト1位指名を受けた選手は水尾が初だった。なお、意中の大洋以外から指名された場合は内定していた熊谷組に就職することを表明していた。プロ1年目の年俸は840万円(推定額)。また推定契約金額は1億円だったが、この額は当時、前年に近鉄バファローズに入団した野茂英雄の1億2,000万円に次ぐ金額で、大洋球団としては契約金・年俸とも当時最高額であった。プロ入り当時は「球威、スピード、コントロールをすべて兼ね備えた投手になりたい」と目標を掲げていたほか、尊敬する投手として桑田真澄(巨人)、対戦を希望する打者として落合博満(中日)の名前を挙げていた。 しかし、プロ入り直前に腰を痛め、プロ1年目の1991年は同年一軍登板はなく、二軍(イースタン・リーグ)でも打ち込まれて19試合登板・6勝4敗・防御率5.69の成績に終わった。翌1992年(年俸740万円)は一軍入りが予想され、一軍戦8試合に登板したが、0勝3敗・防御率5.04の成績に終わった。球団名が「横浜ベイスターズ」に改称された1993年(年俸740万円)は、4月22日の対広島東洋カープ戦で先発登板したが、打者4人相手に一死も取れず3被安打・1死球・4失点の成績に終わって降板し、そのまま二軍落ちした。1994年(年俸720万円)は二軍(イ・リーグ)で10勝を挙げて最多勝利投手となったが、一軍では11試合登板・0勝1敗・防御率6.28の成績に終わる。また大洋・横浜時代は故障により満足な投球ができなかった中で、当時の監督からサイドスロー転向を命じられたが、「自分が後悔する」と考えてこれを拒否したところ、二軍でも練習をさせてもらえなくなった。しかしこのころ、バッテリーコーチに指導を乞うたところ、そのコーチから「力任せに投げるな」と指摘を受け、フォーム改造に取り組んだ。
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大洋・横浜時代
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プロ入り1年目から1軍の試合に出場し、4月4日ホーム開幕戦となる巨人戦で代走でデビューを飾る。プロ入り当時は飛距離に自信を持っていたが、大洋の先輩である松原誠や田代富雄の打撃を見て、これには敵わないとプロとして生き抜く道を模索していたところ、2年目に左手首を痛めたのを機に、屋鋪の足の速さに目を付けた別当薫監督の指示で右打ちからスイッチヒッターに転向した。以降、怪我をしてからウエイトトレーニングを重ね、陸上専門のトレーニングコーチの指導のもと短距離トレーニングを続けていった結果、さらに足が速くなっていった。スイッチヒッターになってからは「ボールを叩きつけて内野安打を狙え」と指導されるようになるが打撃は向上せず、1982年から監督に就任した関根潤三が打撃の基本であるレベルスイングを指導するようになると、左打席での打撃も上達し1984年には打率.305を記録する。1985年からは、高木豊、加藤博一と共に「スーパーカートリオ」として活躍した。当時の監督であった近藤貞雄が命名したのは「スポーツカートリオ」で、以降マスコミによって「スーパーカートリオ」と名付けられる様になる。スーパーカートリオの結成以前は1番を打つことが多かったが、スーパーカートリオ結成時では3番を任された。引退後、この起用について「豊さんはヒットを打つのが上手いから1番なのはわかる。加藤さんは小技もできるから2番でいいとして、僕が3番を打つのは無理だと思った」と語っていたが、結成1年目はキャリア唯一の2ケタ本塁打を記録している。2番を打った加藤は3番バッターの屋鋪に対して「打席で粘ってくれたよね。屋鋪が打席に入ると初球から行けるような態勢を作ってくれた」と語っている。 その後、加藤に代わって高橋眞裕が2番に入ったニュースーパーカートリオでは、高木豊が3番、屋鋪が1番に落ち着いた。 1986年から1988年まで3年連続盗塁王を獲得。右中間や左中間の飛球でテレビカメラにボールしか映っていない場面で、落下直前に突然画面内に現れて捕球してしまう守備範囲の広さ・プレースタイルが忍者を連想させたことから、名字に掛けてマスコミから「忍者屋敷」とあだ名されていた。 しかし、当時のプロ野球のグラウンドはスパイクの歯が刺さらないほど硬かったため身体への負担も大きく、1992年には左膝を、翌1993年には右膝を手術し、走塁での活躍も陰りを見せていく。球団名が横浜ベイスターズとなった1993年のオフに大洋時代からの看板選手たちが大量に解雇され、屋鋪も自由契約を宣告されて「ゴミをゴミ箱に捨てるみたいに」と報道陣の前で悔しがった。この大量解雇は横浜がFAで駒田徳広を獲得するためと言われ、当時はわだかまりも噂されたが、駒田とは引退後に番組共演し、野球教室も一緒にする仲である。横浜を解雇されたことにより、予てから屋鋪の外野守備を高く評価していた巨人長嶋茂雄監督がすぐさま獲得を打診し、1994年に読売ジャイアンツ(巨人)へ移籍した。
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大洋・横浜時代
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1988年に新人ながら初の一軍昇格(同学年で、大洋に同期入団した盛田幸妃と野村弘も、高卒新人で一軍昇格を果たした)。 1989年からは控えとして一軍に定着。 1992年には高橋雅裕から遊撃手の定位置を奪ってレギュラーに定着し、二桁本塁打を記録。 1993年には就任した近藤昭仁監督が現役時に着けていた背番号1を正遊撃手として受け継ぎ、初の規定打席に到達した。 1994年は多くを1番打者として出場。中盤に右肩を故障し、新人の波留敏夫にポジションを奪われるもシーズン終盤に復帰。 1995年は主に下位打線で出場して、自身二度目の規定打席到達。 1996年、新監督の大矢明彦の内野コンバート案によって、3年連続で三塁手としてゴールデングラブ賞を受賞していた石井琢朗が遊撃手に、ロバート・ローズが二塁手から三塁手に、そして進藤が二塁手にコンバートされたが、二塁手となったことで送球が逆スローになった影響から背筋を痛め、ローズも三塁で失策を多発したため、ローズを二塁に戻し進藤が三塁に収まった。しかしその後も怪我が続き、規定打席には届かなかった。 1997年から1999年まで3連続で三塁手部門でゴールデングラブ賞を獲得。 1997年は開幕から好調で、打率上位にランキングされていたが、頭部に死球を受けた後は失速する。 1998年7月8日の阪神タイガース戦、前日の7日にシーズン無失点記録と連続セーブ記録が途切れたクローザーの佐々木主浩が前日に続き1アウト2塁のピンチを招き、矢野輝弘に三遊間にヒット性の打球を打たれる。チームの絶対的な勝ちパターンが揺らいだ、シーズンのターニング・ポイントともなった場面であったが、三塁手・進藤がゴロを横っ飛びの好捕をして即座に一塁送球。アウトにしてチームの危機を救った(7月2日の広島戦で左腕に死球を受けスタメンから外れており、このプレーで左腕を強打して痛みでしばらく立ち上がれなかったが、本人は後日「目を瞑って飛び込んだら入ったという感じ」と平然と言い放った)。石井、ローズ、駒田徳広らとともに、当時12球団でも随一の守備力と呼ばれた横浜内野陣の三塁手として、好守でチーム38年ぶりのリーグ優勝・日本一に貢献。打撃でもいずれも生涯自己最高となる打率.241、14本塁打、54打点を記録し、リーグ優勝決定試合でも勝利打点を叩き出すなど、マシンガン打線の一員として活躍した。 1999年はアルキメデス・ポゾの加入によってスタメンを外れることが多くなり規定打席未達に終わるも、打率.286を記録。当時のチーム打率の日本記録を叩き出した打線の7番打者として活躍した。オフにはFA宣言し、オリックス・ブルーウェーブ、西武ライオンズ、千葉ロッテマリーンズが獲得に乗り出した。11月11日、横浜との残留交渉はわずか20分で終了。17日にオリックスの編成から連絡が入り、電話で1時間以上交渉。二塁手としての出場を強く希望していた進藤に対し、オリックスはゴールデングラブを獲得した三塁手としての起用を予定しており、途中でオリックスの監督仰木彬に伺いを立てながらの交渉は破談。オリックスとはこの電話交渉のみでテーブルにつくことはなかった。西武、ロッテも既に編成が終了していたこともあり、「三塁をやるなら横浜でいい。嫌いになって出ようとしたわけではないから」と、一転して横浜に残留した。この年の移籍が濃厚だったため翌2000年の球団カレンダーの発注に間に合わず、進藤の写真が掲載されなかった。これに伴い、当時横浜へのFA移籍が最有力視されていた江藤智は、三塁手のポジションが重なってしまうことから、読売ジャイアンツへと移籍することになった。 2000年は右足首の故障に加えて欠場中の代役に入った金城龍彦が首位打者および新人王に輝く活躍をみせてポジションを奪われてしまい、わずか59試合の出場で打率.224、2本塁打にとどまる。ちなみに同年の本拠地最終戦(チームのシーズン最終戦でもあった)では、ロバート・ローズが既に帰国していたこともあってもともと自身が希望していた二塁手でスタメン出場するという皮肉もあった。
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大洋・横浜時代
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大洋では一軍でも二軍でも主に中継ぎ投手としての起用が多かった。 1989年は8月29日の対中日ドラゴンズ戦で一軍での初登板を果たし、9月9日の対阪神タイガース戦で一軍での初勝利を挙げた。 1990年は主に中継ぎとして17試合に登板、防御率2.86と結果を残すが、その後は登板機会が減少。 チームの名前が「横浜ベイスターズ」になってからは背番号が「52」に変更。二軍で中継ぎ投手として起用されていた。 1994年には登録名を本名の「石田文樹」から「石田大也」に変更したが、同年限りで現役を引退。
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大洋・横浜時代
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入団当時の監督、須藤豊は「チームで最もいい投手が抑えを務めるべきである」という考えから、看板投手の遠藤一彦を抑えに起用していたため、1年目の1990年は16試合に登板したが、先発で7試合に登板した。同年は2勝4敗2セーブ、防御率5.85の成績で終わった。 1991年はシーズン序盤までは先発で起用されることもあったが先発投手としては中盤に球威が落ちスタミナ面で課題が残る投手であった。しかし遠藤の故障離脱により抑えに抜擢された所、安定した成績を収め定着。速球と落差のあるフォークボールを武器に高い奪三振率を記録。8月28日の対広島東洋カープ戦の9回、見逃し5球、空振り4球、ファウルなしの「三者連続3球三振」を達成している。同年は58試合117イニング(規定投球回数は130イニング)に登板し、6勝9敗17セーブ、防御率2.00の好成績を残す活躍を見せた。シーズン終盤に小谷正勝コーチから「先発で2試合ぐらいいけるだろう」と最優秀防御率のタイトルを狙うよう提案され、須藤監督に直談判したが断られた。同タイトルは広島の佐々岡真司投手が2.44で獲得した。 1992年には開幕から1年間ストッパーを努め初タイトルである最優秀救援投手に輝く。この年、中継ぎの盛田幸妃から佐々木への継投リレーが確立された。 1993年は夏場に故障した影響で38試合で3勝6敗20セーブ、防御率3.27と今一つの成績で終わった。同年オフの契約更改の席で200万円ダウンの年俸5300万円を提示されたことに怒りの態度を見せ、トレード直訴、各球団争奪戦かと報じられた。一時は福岡ダイエーホークス有力とも言われ、横浜球団も最初引き留める姿勢を見せてなかったが、後に「絶対出さない」という態度に転じ、球団によってトレード交渉当面凍結という宣言が出され、また当時の監督、近藤昭仁の説得もあって結局は残留という形で決着した。 1994年はキャンプ時に肘を故障し手術することとなり前半戦を棒に振る。その間抑え投手の座を盛田に譲った。夏場に一軍復帰してからは再び抑えになり、9月18日の広島戦で7者連続三振を記録している。この当時、サンケイスポーツの読売ジャイアンツ(巨人)担当記者が佐々木を(敵チームから見て)「悪魔の守護神」を略した「魔神」と表現する。また、佐々木の風貌が大映の劇中のキャラクター、「大魔神」に似ていることも相まり、「ハマの大魔神」というあだ名が定着した。 1995年は抑え投手として完全復活を遂げ、自身初となる30セーブ越え、防御率1点台を記録し、3年ぶりに最優秀救援投手を獲得する。7月8日のヤクルト戦で史上最速となる500奪三振を達成。地元横浜開催となったオールスターにファン投票で選出され、先発登板。パ・リーグ先頭打者のイチローとの対決が話題となった。オフには横浜生え抜き投手として初の1億円プレイヤーとなる。 1996年も2年連続となる最優秀救援投手を獲得。しかし、この年のシーズンオフに球団が有働勝次を解雇したことに怒り、メジャー・リーグへの移籍を示唆する。またシーズンオフには自主トレーニング先のサイパン島で不祥事を起こすといったこともあった。 1997年はシーズン前の雑音を封印するかのように奮起し、シーズン無敗、防御率0点台の活躍を見せ、チームの2位躍進に貢献。3年連続の最優秀救援を獲得。特にチームが急上昇した8月はプロ野球記録となる月間14セーブを挙げ、月間MVPを獲得している。シーズンオフには約1億5000万円アップの年俸3億3000万円で更改。 1998年は父親の一周忌でもある7月7日に(1996年8月31日以来の)675日ぶりの敗戦を記録するまでシーズン自責点0を続ける。結局敗戦はその1敗のみで、登板数51試合、30セーブ以上挙げた投手の中でも歴代トップの防御率0.64(自責点4)という安定感ある成績を残し、史上初の40セーブ越えであり当時プロ野球記録で、135試合制の記録としては歴代最多となる45セーブ(当時公式記録の46セーブポイントも日本記録)を挙げ、4年連続となる最優秀救援投手賞を獲得して横浜の優勝に大きく貢献した。優勝決定直前の10月2日にはナゴヤドームで2位・中日と最後の直接対決で7連勝目となる勝利を決めたが、この時には9回裏に佐々木が登板した際、敗北を決定づけられ優勝が絶望的になった中日ファンが「中日への怒りの声」として佐々木への大声援を上げた。10月8日のリーグ優勝を決めた阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)にも9回裏に抑えで登板し、新庄剛志から三振を奪って胴上げ投手となった。佐々木は後に自らこの試合を「ベストゲーム」としている。この年はシーズンのセーブ、セーブポイント数の日本記録に加え、6月4日の巨人戦で鹿取義隆を抜いて通算217セーブポイントの日本新記録(当時)、6月17日の阪神戦で17試合連続セーブの日本新記録、6月30日の広島戦で22試合連続セーブポイントの日本新記録、8月5日の阪神戦で江夏豊を抜いて通算194セーブの日本新記録(当時)、8月7日の広島戦でプロ野球史上初の2年連続30セーブを達成するなど、日本記録ラッシュが続いた。6月と9月の月間MVPも獲得している。9月19日には、横浜の優勝を祈願して横浜駅東口の地下街ポルタ内に、佐々木のフォークボールの握りを再現したブロンズ像を「ご神体」とした「ハマの大魔神社」が設置され、翌1999年1月17日に撤去されるまでの間に約1660万円のお賽銭が集まった。一方で、当時の横浜は38年ぶりの優勝で球団そのものが優勝慣れしていなかったため、リーグ優勝のビールかけでは通常常温のビールを使うところをキンキンに冷えたビールを用意してしまい、そのせいで佐々木は風邪を引き、日本シリーズでは38.3℃の高熱を出しながらの登板となった。フラフラになりながらの登板で投球に本来のキレがないものの抑え続け第6戦で金村義明を併殺打に打ち取って胴上げ投手となり、MVPをはじめ、正力松太郎賞、日本プロスポーツ大賞を受賞。シーズンオフにはイチローとともにプロ野球史上初めて年俸5億円に達した。また「ハマの大魔神」はこの年の新語・流行語大賞を受賞するなど、社会現象となるほどの活躍を見せた。 1999年にFA権を取得し、メジャー移籍が可能になる。シーズン中に故障し戦線を離脱するが、シーズン中にもかかわらず手術を受けたことに対して球団は不信感を持ち、佐々木も移籍を匂わせるような発言をした。結局この年は長期離脱が響いて23試合の登板に終わり19セーブに留まったが、防御率は1.93とこの年も安定感は抜群だった。 オフにトニー・アタナシオを代理人とし、11月1日にFA権を行使してMLB挑戦を表明し、12月18日にはシアトル・マリナーズと総額1200万ドル+出来高の3年契約(4年目は年俸500万ドルの球団オプション)を結ぶ。当時のマリナーズ筆頭オーナーであった任天堂の山内溥は「メジャーリーグのピカチュウになってほしい」とコメントした。メジャー移籍後、横浜球団が背番号22を他の選手に渡したのは、佐々木の行動に対する失望や不信感からだとされている。佐々木は日本一になった年のオフ、球団に「メジャーに行きたい」と訴えたが、強引に引き留められた。
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