打者転向、大洋→横浜時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 07:31 UTC 版)
1988年に投球フォーム改造を失敗した影響で腰を痛めたため、打者へ転向。同年8月28日の対近鉄戦で石本貴昭投手からプロ初安打を本塁打で飾る。 1989年には外野の控えとして一軍に定着する。 1990年、監督が杉浦忠から田淵幸一に代わると出場機会が減少し、同年のシーズンオフにダイエーを自由契約となる。 1991年、ダイエー時代のコーチ竹之内雅史が入団した縁で横浜大洋ホエールズの入団テストを受けて合格。 1992年、一塁手の準レギュラーとして一軍に定着する。 1993年には球団で右の強打者として継承される背番号25に変更し、6番打者・左翼手のレギュラーを獲得。128試合に出場し打率.281、14本塁打、72打点と活躍。オールスターゲームに初出場した。この年初めて規定打席に到達したが、投手として1984年に規定投球回数に達しており、ドラフト制以降では初めて規定投球回到達・規定打席到達の両方を達成した選手となった。この記録を達成している選手は2020年現在も畠山が唯一である。 1994年も主に5番打者・中堅手として活躍。 1995年からは選手会長を務め、3年連続となるオールスターにも出場した。しかし、同じ外野手の鈴木尚典、波留敏夫、佐伯貴弘ら若手の台頭もあり、この年より出場機会を徐々に減らす。 1998年は右の代打として横浜の38年ぶりの優勝・日本一に貢献した。 1999年シーズンオフに戦力外通告を受け、現役を引退。
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