1989年シーズン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 18:06 UTC 版)
「ウィリアムズ・FW12」の記事における「1989年シーズン」の解説
ルノーエンジンとのマッチングも良く、エンジンの信頼性はジャッドとは比較にならない程の戦闘力に高まり、序盤戦から堅実な成績を収めた。第6戦カナダGPではワンツーフィニッシュを果たし、ブーツェンがF1参戦95戦目で初優勝を達成した。パトレーゼは4戦連続表彰台に立ち、第10戦ハンガリーGPではポールポジションからリタイアするまでトップを快走した。
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1989年シーズン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 02:18 UTC 版)
「フェラーリ・640」の記事における「1989年シーズン」の解説
テスト段階はセミATの故障が相次ぎ、充分な走り込みが行えなかった。初レースとなる開幕戦ブラジルGPではナイジェル・マンセルが優勝したが、セミATの信頼性がまだ不十分でしばしばトラブルを起こし、延べ30戦の出走で18回のリタイアを喫した。バーナードによれば、実際に問題を抱えていたのはギアボックスではなくオルタネーターで、オルタネーターからの電気が途絶えるとギアボックスにまず問題が起こる状態だった。この年から元々前後ウイングのメイン・プレーンは硬いものだったが、翼端板もほぼ同じ硬度のものになった。 第2戦サンマリノGPでは、角度のきつい縁石というコース特性にこの硬質なフロントウイングが逆に仇になって、コーナリング中にフロントウイングが折れたためにタンブレロコーナーでクラッシュしたゲルハルト・ベルガーのマシンが炎上。ベルガーは火傷を負い次戦を欠場した。この事故ではモノコックの両側に張り出した燃料タンクの設計が問題視され、翌年に向けて寸法が規制されることになった。 この年もマクラーレンの優位は続いたが、マンセルは中盤戦から連続して表彰台を獲得し、ハンガリーGPでは予選12番手から優勝した。ポルトガルGPでは640がマクラーレンをしのぐ速さをみせ、ベルガーが優勝したが、マンセルは黒旗失格後も走行を続け、アイルトン・セナを道連れにクラッシュした。 この年は3勝したものの完走率の低さが影響し、コンストラクターズランキングでは2勝のウィリアムズに次ぐ3位となった。
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1989年シーズン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 10:13 UTC 版)
「ロータス・101」の記事における「1989年シーズン」の解説
101は、当初の期待に応える結果を残すことは出来なかった。最高成績はネルソン・ピケ、中嶋悟ともに決勝4位が最高位であった。搭載されたジャッドエンジンはチャンピオンチームであるマクラーレンが使用するホンダV10エンジン (RA109E) に比べて100馬力以上出力が低かったと言われ、さらにワークスエンジンは疎か同じジャッドエンジンを積むマーチやフォードDFRエンジンよりもトップスピードが10キロも低かったとされる。これを受けてロータスと提携したティックフォードによる5バルブエンジンを投入するが、パワー・信頼性に欠けていたためフランスGPで使用されたのみであった。 シャーシとグッドイヤータイヤとの相性も良くなかった。当時のタイヤは基本的にトップを争うマクラーレンとフェラーリ向けに設計されており、それらのチームだけが最新のタイヤでテストを行うことでコンパウンドにあわせたシャーシアジャストを行うことが出来ていた。 第3戦モナコGPでは、予選セッション中の抜き打ち車検にて中嶋車のリアウィング寸法違反が判明し、鋸でカットして対応したが、予選通過できなかった。 第8戦イギリスGPの後、チーム体制に大きな変化があった。チェアマンのフレッド・ブッシェルが「デロリアン疑惑」により逮捕され、チームマネージャーのピーター・ウォーがチームを去った。代わりに、トニー・ラッドがエグゼクティブチェアマンとしてチームを率いた。第9戦ドイツGP以降は新たな体制で臨んだものの、第11戦ベルギーGP予選では、ピケ・中嶋ともにセッティングが出せず予選不通過となった。ロータスにとって1958年のF1参戦開始以来、エントリーしたマシンがすべて予選不通過となるのはチーム史上初であった。 苦戦続きの中でも、中嶋は「後半戦は結構マシンがまとまってきた印象があった」と述べており、自身の5年間のF1参戦中にドライブしたマシンの中では最上位ともいえるレベルにあったと振り返っている。 なお、最終戦オーストラリアGPでは中嶋が、豪雨の中でこのマシンとして唯一となるファステスト・ラップを記録した。 シーズンを通してチームのパフォーマンス低下に苦しんだピケと中嶋は、いずれもこの年限りでロータスを去った(ピケはベネトン、中嶋はティレルに移籍)。
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