中嶋悟(日本)
1973年にファミリア・ロータリークーぺでレースデビュー。サバンナやFL500を経て77年にはヒーローズからF2000、そしてFJ1300に参戦。全日本F2000選手権でシリーズ3位、全日本FJ1300選手権では全勝でチャンピオンに。以降、全日本F2、富士GCのタイトルを何度も獲得。82年にはヨーロッパF2に参戦し最高位は2位、86年はヨーロッパF3000にも参戦。87年、ロータスからF1に。日本人として初のフル参戦F1ドライバーとなった。デビュー2戦目となったサンマリノGPで6位に初入賞、イギリスGPでは4位に入賞するなど7ポイントをあげてランキング11位。90年にティレルに移籍し、91年まで参戦した。5シーズンで74戦したベストは4位2回。シリーズ成績は87年の11位が最高位。レース引退後はチームオーナーとして後進を育成。高木虎之介などもそのひとり。
中嶋悟
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中嶋 悟(なかじま さとる、1953年2月23日 - )は、愛知県岡崎市出身の元レーシングドライバーで、有限会社中嶋企画代表取締役社長。身長165cm、体重60kg。血液型B型。
注釈
- ^ 松浦は1975年から中嶋に注目していたが、初めて話をしたのは1976年5月、富士スピードウェイの食堂だった。
- ^ 7月4日のビッグジョン・トロフィーのあとすぐに1977年の所属が決まった訳ではなく、シーズン終盤まで何も決定はしていなかったので中嶋は「1976が一番やせてたね、体重も50キロを切っちゃってやつれているという感じだった。レースでは体力不足だし、お金は無いし、一番ドン底の期間だった」という
- ^ 日本国内ではホンダの初供給チームであった。
- ^ ハラダレーシングカンパニーはフランスelfおよびCIBIEの輸入代理店業や、1978年にルネ・アルヌーを全日本F2に参戦させるなど欧州とのパイプがあった。
- ^ 以前ヒーローズを離れる要因となった絶対的エースである星野一義は自らチームを創設し独立、その後任となった高橋徹はレース中事故のため亡くなり、ヒーローズは空席となっていた。
- ^ 1984年・1985年については鈴鹿F2とのダブルタイトル
- ^ 柔道とは無関係であるが、アウト側(外)からオーバーテイク(かる = 駆る、狩る、刈る)という意味で柔道で同名の技「大外刈」と語呂合わせで誕生した言葉。主に鈴鹿サーキット第1コーナーでのアウト側からのオーバーテイクに対して表現されるが、近年では他のコーナーでもアウト側からのオーバーテイクのことを「大外刈り」と表現する傾向がある。
- ^ なお、サンマリノグランプリは、スタート時にセナのスペアカーへと乗り換えたため車載カメラが搭載されていない
- ^ 5位のピケと1/1000秒まで同タイムだったが、先にタイムを出したピケが上位となる。
- ^ 鈴鹿は下り坂スタートのためアクセルコントロールが難しく、F2時代にも何度もミスしたことがある。
- ^ アレジはこのようなテスト作業を当時嫌っていた。
- ^ 前述の通り、水煙の影響でエンジンがミスファイアを起こしていた
- ^ 最初の愛車がフェアレディZだった。
- ^ 生沢がホンダと繋がりがあったことから獲得した
- ^ 1987年日本GP前日のフジテレビのプロストへのインタビューによる
出典
- ^ “会社概要”. 2021年11月2日閲覧。
- ^ a b 近藤真彦JRP新会長、「先輩たちの力を借りて、みんなでスーパーフォーミュラを盛り上げていく」 - Car Watch・2023年3月5日
- ^ 海老沢泰久 1988, p. 13.
- ^ 中嶋悟のF1風雲録〔2〕 夢舞台・人生はレースとともに(朝日新聞) - WEB新書 - 朝日新聞社
- ^ 中日新聞 2014年4月21日、朝刊、三河版、12面 「こころは三河 私の古里」。
- ^ 『リバーシブル』(株式会社ペーパードール)1984年11月号、56-69頁 「THE INTERVIEW レーサー中嶋悟」。
- ^ 海老沢泰久 1988, pp. 15–18.
- ^ 海老沢泰久 1988, p. 21.
- ^ a b c 「走る人生」中嶋悟20年の軌跡 意識は世界に グランプリ・エクスプレス 12-13頁 1991年10月12日発行
- ^ 『Racing On』(三栄書房)2009年9月号・p.39
- ^ a b c d e f g 走る人生 届かなかった世界 一志治夫 GPX 1991スペイン号 12-13頁 山海堂 1991年10月19日発行
- ^ a b c d 誰の為でもなく 吉井妙子 GPX 1991日本GP直前情報号 9頁 山海堂 1991年10月23日発行
- ^ a b 特集・F1がまるごとわかる本 中嶋悟「野望」告白 小学館 GORO 1987 No.17 30-33頁 1987年8月27日発行
- ^ 星野一義1984年富士GCシリーズ全戦をポールtoウインで完全制覇 Webモーターマガジン 2019年3月16日
- ^ 「タキ井上が教えます!リアルな裏F1」井上隆智穂著 東方出版 P.21/ P.62 2016年
- ^ 海老沢泰久 1988, pp. 3–12.
- ^ 『F1地上の夢』(海老沢泰久、朝日新聞社、1992年)pp.457 - 461
- ^ a b 走る人生 1986、夢への前夜祭 一志治夫 GPX 1991ベルギー号 12-13頁 山海堂 1991年9月14日発行
- ^ Belgiam Grand Prix QUALIFYING 2 Formula1.com 28 Aug 1988 Circuit de Spa-Francorchamps, Belgium
- ^ 中嶋悟と鈴鹿サーキット【6】よき理解者失った 朝日新聞 2012年8月31日
- ^ サンマリノ・グランプリ 新車019の乗り方に悩む中嶋 Racing On No.076 14頁 1990年7月1日発行
- ^ 「ぜんぶF1から教わった」(中嶋悟、マガジンハウス、1992年)pp.162
- ^ 「F1グランプリ特集 1月号増刊 F1グランプリ・イヤーブック1991-1992」、p.181、ソニーマガジンズ、1992年。
- ^ a b 中嶋悟「ファンの人たちにこたえたかった」 Number Web(2006年10月12日)2020年5月21日閲覧。
- ^ “伝説の一戦Vol.7 1989年F1第16(最終)戦オーストラリアGP(アデレード市街地コース)”. 2021年11月2日閲覧。
- ^ “スーパーフォーミュラで中嶋悟監督の優勝を支えたIT企業とは”. 2021年11月2日閲覧。
- ^ 「4位にはなれたよね」単独4位を走行中突然のギアボックストラブルでリタイアしてしまった中嶋悟 F1速報1991年第3戦サンマリノGP号 8頁 武集書房
- ^ 予選での速さがサトルの課題 F1グランプリ特集 1991年7月号 53頁 CBSソニー出版
- ^ F1グランプリ特集 1991年10月号 27頁 ソニーマガジンズ
- ^ 関係者50人の中嶋悟に贈るエール F1グランプリ特集 Vol.28 1991年10月号 35頁 ソニーマガジンズ
- ^ F1グランプリ特集 Vol.15 1990年7月号 52頁 CBSソニー出版
- ^ 中村良夫『F1グランプリ全発言』(第2版)株式会社山海堂、1990年6月10日、p.121頁。ISBN 4-381-07627-3。
- ^ GPX 1991イタリアGP 山海堂
- ^ F1グランプリ特集 1991年10月号 37頁 ソニーマガジンズ
- ^ F1グランプリ特集 1990年7月号 52-53頁 ソニーマガジンズ
- ^ 「日本人F1ドライバー鈴鹿激闘史」ネコ・パブリッシング 2014年 P.35
- ^ 【トップインタビュー】F1引退を決めた中嶋悟。その心を晴らした本田宗一郎からの一言 - motorsport.com 2021年3月8日
- ^ 【トップインタビュー】現役ドライバーから運営に。立場が変わっても中嶋悟が忘れなかった“正直さ” - motorsport.com 2021年5月27日
- ^ 海老沢泰久 1988, p. 30.
- ^ 海老沢泰久 1988, pp. 58–59.
- ^ 「モータースポーツジャーナリスト青春編」(今宮純著、三樹書房、1998年)pp.198 - 202
- ^ 関係者50人の中嶋悟に贈るエール F1グランプリ特集 Vol.28 1991年10月号 ソニーマガジンズ 1991年9月16日発行
- ^ 中嶋悟が語る、今宮純さんとF1「気持ちを許してしゃべれた」 Sports Graphic Number 文芸春秋 2020年2月19日
- ^ 中嶋悟. “元F1レーサー中嶋悟(1)車こそすべて レースにささげた人生 仕事も余暇も「幸せなヤツ」自負”. 日本経済新聞. 日本経済新聞社. 2021年11月2日閲覧。
- ^ いつかはF1 私の履歴書日経BOOK PLUS 2022年12月16日閲覧
- ^ 「今月の広告批評」『広告批評』第128号、マドラ出版、1990年5月1日、106 - 107頁、NDLJP:1853094/55。
- ^ 鈴鹿60周年ファン感謝デー/中嶋悟 鈴鹿サーキット 2022年2月10日
中嶋悟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 06:29 UTC 版)
1978年にイギリスF3にスポット参戦した中嶋悟は、生沢から「チームを作るから、俺と一緒にヨーロッパへ行こう」と口説かれてi&iレーシングに移籍した。4年後、ヨーロッパ遠征の中断をきっかけに中嶋はチームを離脱するが、その後もホンダとの関係を保って1987年のF1デビューに結びつけた。中嶋は「生沢さんのところに行っていなければ、ホンダに乗れていたかは分からないし、今の自分はなかったんじゃないかな」と述べている。
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中嶋悟
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中嶋悟
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ロータス時代のチームメイトである中嶋悟に対しては「サトルの走りは決して悪くない。みんなが思ってるよりずっとうまい。1988年にはコースも覚えて、中低速コーナじゃ僕の方が速いけど、高速コーナーはサトルの方が速かったくらいだ」。「サトルは1987年に彼だけ全戦で車載カメラが付けられてたのが不幸だった。あのカメラで彼のアクシデントはすべて記録されたから、それを何回もリプレイされて事故を起こす印象が強いんだよ。チームメイトで言えばフランソワ・エスノーなんてスピンだらけで最悪。サトルとは大違いだった」と発言している。
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中嶋悟
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元レーシングドライバーの中嶋悟は、長年のパートナーとして広く認識されている。 販売拡大とブランドイメージ向上を図るための新たな広報活動として、1983年(昭和58年)より全日本F2に参戦するハラダレーシングのスポンサーとなり、モータースポーツへ初参戦を果たした。この時、同チームに加入したのが中嶋だった。速くてマシンを壊さないドライビングスタイルの中嶋が商品とオーバーラップさせられる選手であるとして、翌年より中嶋(及び中嶋企画)への支援が開始された(ハラダレーシングはこのシーズンで撤退)。 1984年(昭和59年)には、ネスカフェゴールドブレンドのTVCMでキャラクターに起用されたレーシングカーデザイナーの由良拓也と中嶋が共演。全国放映されたCM中で由良がデザインする中嶋のマシンが"EPSON"のロゴと共に何度も大写しされたことにより、自社が全く関与しない形でTV中継を含むレース観戦者以外の一般視聴者にも広くその会社名を知られるきっかけとなった。当時の広報担当者は、この思いもよらない宣伝効果が知名度と業績の劇的な向上につながったとして、「今のわが社があるのは中嶋さんのおかげ。今後も会社を上げて全力でサポートしていく」と語っている。 1987年には中嶋のF1参戦に伴いパーソナルスポンサーとしてF1に参入。1988年(昭和63年)から1991年(平成3年)まで中嶋の所属チーム(ロータス、ティレル)のスポンサーとしての活動も展開。この時期には中嶋を起用したテレビCM(ノートパソコンやCI広告)も制作され、当時のF1ブームも重なり企業イメージと知名度が飛躍的に上がり、就職希望者が大幅に増加するといった現象もみられた。また1991年(平成3年)にはノートパソコン「NOTE&BOOK」のテレビCMに、中嶋が歌う『悲しき水中翼船』がCMソングとして使用(CMにも出演)され、CDが発売された時には現役F1ドライバーが歌手デビューしたとして大きな話題となった。 中嶋の現役引退後も中嶋企画への支援は継続され、2000年(平成12年)より子会社のエプソン販売がスポンサー活動を引き継いでいる。
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