全日本フォーミュラ・パシフィック選手権とは? わかりやすく解説

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全日本フォーミュラ・パシフィック選手権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/28 20:37 UTC 版)

全日本フォーミュラ・パシフィック選手権(All Japan Formula Pacific Championship)は、1977年から1982年まで日本で開催されていた自動車レースの1カテゴリー。フォーミュラ・パシフィック(FP)規定のフォーミュラカーを使用した四輪レースで、日本自動車連盟(JAF)は国内トップカテゴリーとして位置付けていた。

概要

1977年、JAFはそれまでの全日本F2000選手権に代わる国内トップフォーミュラとしてFP規定の全日本フォーミュラ・パシフィック選手権をスタートさせる。初年度からグランプリのタイトルを与える力の入れようだったが、参加台数は集まらずF2000との混走に。この年は選手権は成立しなかった。 翌1978年から本格的スタート。JAFとしてはFP規定でマカオグランプリが行われること、長らくモータースポーツ活動を停止しているトヨタ自動車日産自動車がエンジンを供給することなどから、全日本F2選手権(F2000が1978年から名称変更)から行く行くはFPを国内トップフォーミュラに据えたい方針だったが、意に反しエントラント・ファンの耳目はFPに集まらず、欧州主体のF2が依然トップフォーミュラと認定され続け[1]富士スピードウェイの独自カテゴリである富士GCシリーズがF2と並んで日本の代表カテゴリーとなっていた[1]

全日本FPには長谷見昌弘星野一義中嶋悟松本恵二と言った国内トップドライバーが参戦したものの、平均出走台数は10台前後と言ったシーズンが続き、特に大きなムーブメントを起こすこともになく1982年を以て終了した。なお、JAFは翌1983年から、新たな全日本選手権として全日本耐久選手権をスタートさせる。

歴代チャンピオン

ドライバー 所属チーム シャーシ エンジン タイヤ
1977年 参戦台数不足のため不成立
1978年 長谷見昌弘 三陽機器レーシング シェブロン・B40 日産・LZ14 B
1979年 和田孝夫 東名自動車 マーチ79B 日産・LZ14 D
1980年 長谷見昌弘 ハセミレーシング マーチ792/802/79B 日産・LZ14 B
1981年 星野一義 ホシノレーシング マーチ79B 日産・LZ14 B
1982年 星野一義 ホシノレーシング ラルトRT4 日産・LZ14 B

関連項目

脚注

  1. ^ a b 国内F3選手権の歴史 オートスポーツ No.709 12-16頁 三栄書房 1996年9月1日発行



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