ホンダとの関係
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吉村が本田のことを意識しだしたのは1957年に発売されたC70を手掛けるようになった頃で、1961年に発売されたCB72などを本格的にチューニングし始めた頃にはホンダがマン島TTに初出場ながら6位入賞を果たしたという話を聞き「すごい先輩がいるものだ」と技術の探求とレースへの挑戦に対して尊敬の念を抱くようになったという。初めて接点らしい接点がもたれたのは1964年の10月23日に行われたジュニア・ロードレースで、自陣営のマシンより速いヨシムラのマシンに本田が興味を持ったときと考えられている。ヨシムラコンペティションモータースを退職して独立した松浦賢に対して自作のカムシャフトを贈り「お前が勝つのもうちが勝つのも一緒じゃないか」と吉村は言ったが、敵チームのマシンを分析させてくれないか頼むよう指示した本田に対して、吉村はそれを了承し自らのマシンを差し出した事は、同じ業界で切磋琢磨しあうものに対する敬意や連帯感を持っていたからではないかと本田の長男の博俊は語っている。そして本田もまた、差し出されたマシンを見て、吉村のオートバイにかける熱意を感じ取ったのではないかと考えられている。一時期関係の悪化した時期を経ても吉村は本田を尊敬していると明言しており、そのような思いに応えるように、2度めの手術を受けて入院していた時には、吉村の好んだびわの実を題材に据えた本田直筆の絵を贈って見舞うといった交流が行われていた。 本田技研工業の副社長やHRC初代社長を務めた入交昭一郎も同様に、職人芸でもって大資本のワークスチームに対抗しうるだけの性能を発揮するマシンを開発し続けた吉村を評価している。そして、同じレース業界を盛り上げていく仲間として、吉村に対する敬意があればこそ、全力でこれに臨み、勝利を奪いにいかねばならず、そうでなくては申し訳ない、という気持ちで相手をしてきたと語っている。
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ホンダとの関係
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本田宗一郎は1945年に自身が所有していたピストンリング製造会社「東海精機重工業」の全株式を豊田自動織機へ売却。1946年に売却資金を元手に本田技術研究所を設立、1948年には本田技研工業と改称し本格的にエンジン製造へ参入する。
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ホンダとの関係
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「エルフ (オートバイ)」の記事における「ホンダとの関係」の解説
上述のように本田技研工業とは協力関係にあり、エンジンの提供を受けている他、本田技研工業側もelfが持つサスペンションに関する特許の使用権を購入しており、VFR400R(1986年発売)、VFR750R(RC30)(1987年発売)、ホンダ・ブロス(1988年発売)などに採用されている。
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ホンダとの関係
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1987年、ホンダがロータスにエンジンを供給し、セナとホンダとの蜜月関係が始まる。これは、1988年にセナがマクラーレンに移籍した後も続き、結局1992年まで6年間ホンダエンジンをドライブし続けることになる。本田宗一郎と会った際に「お前のために最高のエンジンを作ってやるよ」と言われ、「本田さんは日本での父」と感涙した。 また、1987年までホンダF1総監督だった桜井淑敏とは、桜井がホンダを退社した後もセナが何かと相談を持ちかけるほどの深い友人関係にあった。 開幕戦ブラジルGPでは、エンジンに異常を感じてリタイアしたが、実際にはエンジンは壊れてはいないとされた。しかし、ホンダのエンジニアがエンジンを分解してみたところ、パーツが壊れてエンジンブローする寸前だったという。この一件でホンダのエンジニアによるセナへの評価や信頼が上昇することとなった。 1988年の鈴鹿でのレース後に、セナはアラン・プロストと共に、本田から食事に招待され、本田から「うちのクルマで勝ってくれてありがとう」と言われた。セナは、礼を言われるとは思ってもいなかったので、感激しほとんど料理を食べることができず、ただ涙を流していたという。 レース以外でもホンダとは関係を持ち、1989年にホンダのフラグシップ・スポーツカー、NSXの開発テストに参加。これはセナが生涯の中で唯一手掛けた市販乗用車であった。同車のテストにおいて、剛性不足を指摘されたホンダが、剛性を確保するために取り付けたバーは、通称『セナバー』とも呼ばれる。また、「セナさんの休日」のキャッチコピーで、同社のVT250スパーダ(2輪)の紙面広告に出演。その後、同社のプレリュード(4代目)のCMにも出演した。キャッチコピーは「Just move it」。 また、マクラーレンで担当エンジニアだった木内健雄と最後に会った時に、「俺は若いから、まだ何年でも待っていられるから、もう一回ホンダに乗るから」と、F1の舞台での再会を誓っていた。 2013年、ホンダは1989年日本GPにおけるセナの予選最速ラップを最新技術で再現する「Ayrton Senna 1989プロジェクト」を発表。エンジン音や走行ラインを3DCGで再現するウェブコンテンツ「3D-View」などを公開した。
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