四輪のチューニング、秋川移転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:20 UTC 版)
「吉村秀雄」の記事における「四輪のチューニング、秋川移転」の解説
ホンダ・S600 ホンダ・S800 船橋サーキットや富士スピードウェイなどの幅員の大きい四輪のモータースポーツ開催に適したサーキットが関東圏に完成し四輪レースの人気が高まると、東京に進出した吉村の下には四輪のエンジンに関する依頼も増えていった。九州で活動していた時期にも鈴鹿サーキットでGT1クラスにエントリーしていた永松邦臣にカムシャフトを作るようなことはあったが、一般のユーザーを相手に四輪の仕事を引き受けることはまだ無かった。そうした中には寺田陽次郎や舘信秀、鮒子田寛といった有力ドライバー達が含まれており、四輪のチューニングに対してとくに違和感やこだわりを持たなかった吉村は依頼を了承し、1966年5月3日に富士スピードウェイで行われた第3回日本グランプリ、T-Iクラスで見崎清志が優勝したことを皮切りに、吉村の手掛けたマシンはT-IクラスやGT-Iクラスで脚光を浴びるようになった。 自動車のチューニングも手掛けるようになると福生市の工場では手狭になってきたため、ヨシムラ・コンペティション・モータースは秋川市へ移転することとなった。新工場は30坪ほどの大きさに従業員用の宿舎を備え、シャーシダイナモも導入されたことにより作業環境は向上した。この頃のヨシムラには松浦賢や、後に長女南海子の夫となる森脇護といった面々が加わり、長男不二雄も高校を卒業するなり上京し、共に働き始めた。 順調に戦績を重ねる森脇護は1969年のセニアクラスで3位に入賞し、上位入賞者が辞退したことから、翌年のシンガポールグランプリへの海外招待を獲得した。ヨシムラにとっては初の海外遠征であり、こうして吉村は戦時中を過ごしたシンガポールを再び訪れることとなった。車両の運搬は現地のホンダ代理店である文秀有限公司を通して行われ、出発する直前に吉村は偶然にも鈴鹿サーキットのレストランで本田宗一郎と居合わせた。吉村は「今度シンガポールに行くことになりました」と挨拶をすると本田は「向こうの店はちゃんとしておくから心配するな」と伝え、そして「向こうに行ったら女は怖いぞ。気をつけろ」と笑顔で吉村一行を送り出した。レースは予選ではトップだったものの、本戦では燃料タンクの容量に関するレギュレーションの誤解からピットインを余儀なくされ、2位に終わった。 この頃にはRSC内部で吉村に対して理解を示していた木村昌夫による尽力や、RSCの人事異動などもあり、関係は概ね修復され、バックアップも得られるようになっていた。1971年にはRSCとヨシムラが共同でマシンを開発し、高武富久美と菅原義正の体制で臨んだ全日本富士1000kmレースではホンダ・H1300がクラス優勝を果たした。この時のヨシムラとホンダとの関係をRSCに勤めていた木村昌夫は以下のように語っている。 H1300を一緒にやって、吉村さんはどう思われたか分かりませんが、我々としてはホンダとヨシムラの関係を相当修復できたかなあと思いました。吉村さんと一緒に組んで走らせたH1300が優勝したのは私にはとてもいい思い出となっています。 — 木村昌夫、ポップ吉村の伝説 1960年代後半から1970年代前半にかけては2ストロークエンジンを搭載したオートバイの躍進により、4ストロークエンジンを搭載した車両は劣勢に立たされつつあった。そのため、吉村が2ストロークエンジンに関心を示さなかった事もあり、当時のヨシムラの引き受ける仕事は四輪の比重が増していた。
※この「四輪のチューニング、秋川移転」の解説は、「吉村秀雄」の解説の一部です。
「四輪のチューニング、秋川移転」を含む「吉村秀雄」の記事については、「吉村秀雄」の概要を参照ください。
- 四輪のチューニング、秋川移転のページへのリンク