ホンダとトヨタ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 02:10 UTC 版)
「F1世界選手権の歴史」の記事における「ホンダとトヨタ」の解説
2000年代はチーム・ドライバーとも自動車メーカーが関与し、総合的にF1にとりくむ姿勢が目立つ。F1活動を休止していたホンダは2000年よりエンジン供給を再開。2002年には自動車生産台数世界3位(当時)のトヨタがフルワークス体制を立ち上げ、大型参戦として話題を呼んだ。 2001年にはホンダのSRS-F出身の佐藤琢磨がF1にデビュー。下部カテゴリのF3で国際的な実績を残してステップアップした新世代のドライバーとなり、2004年のアメリカGPでは日本人として14年ぶりの3位表彰台を獲得した。 2006年、ホンダがB・A・Rを買収して38年ぶりにフルワークス参戦を開始し、ハンガリーGPで通算3勝目を記録した。また、ホンダの支援を受けて鈴木亜久里が代表を務めるスーパーアグリが誕生。同チームより井出有治、山本左近がデビューした。 2007年には日本GPの舞台がトヨタ傘下の富士スピードウェイに移るが、初年度は施設・輸送面の不備が問題となった。トヨタのTDP出身の中嶋一貴がデビューし、中嶋悟を父にもつ日本初の二世F1ドライバーとなった。 スーパーアグリは小規模ながら健闘したが、参戦当初より資金面で苦戦し、3年目の2008年シーズン途中に撤退・チーム消滅へと追い込まれた。2009年以降日本GPは鈴鹿サーキットと富士スピードウェイの交互開催となることが決まったが、経済状況悪化のためシーズン終了後にホンダがF1活動撤退を発表した。 2009年にはホンダの資産を引き継いだ新生ブラウンGPがドライバーズ(ジェンソン・バトン)、コンストラクターズの2冠を達成する快挙を演じ、トヨタではTDP出身の小林可夢偉が代役デビューで健闘した。しかし、2010年に向けては富士スピードウェイの日本GP継続断念に続き、本体のトヨタもF1活動撤退を発表。ブリヂストンも2010年限りでのタイヤ供給終了を発表するなど暗い話題が続いている。ホンダ、トヨタの突然の撤退決断の背景には、レース活動の中でも桁違いなF1コストの問題とともに、本業の急務である低公害車開発に資本と人材を集中するという理由がある。。
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