ホンダとヤマハの因縁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 13:06 UTC 版)
世界のオートバイ製造第1位のホンダと、同第2位のヤマハとの間には深い因縁がある。第二次世界大戦当時、戦闘機用プロペラを製造する軍需工場となった日本楽器製造(現:ヤマハ。以下「日本楽器」)の社長であった川上嘉市は、金属加工技術に乏しく生産性が上がらない同社の状況に悩み、東海精機重工業(現:東海精機)の当時社長であった本田宗一郎を頼った。自作のカッター式自動切削機でそれまでの1週間から15分へと製作時間を短縮させた宗一郎へ、嘉市は「日本のエジソン」と高く称賛し、特別顧問に迎えた。 戦争終結後にオートバイ製造へ転換したプロペラ工場は「ヤマハ発動機」となるが、ここでも嘉市は宗一郎へ助言を求め、創立に貢献した。当時、日本楽器の社長は嘉市の長男である川上源一がヤマハ社長と兼任していたが、源一も宗一郎の高い能力を常々聞かされていたため異存を持たず、1977年には自らが会長へ退くにあたり、当時のホンダ社長・河島喜好の実弟である河島博を日本楽器の専務から社長に昇格させ、後任に据えた。このような背景から、ホンダと日本楽器/ヤマハには地縁的同業という枠を越えた、一種の蜜月関係にあると業界は見ていた。
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