ホンダとの交流、軋轢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:20 UTC 版)
1965年4月、ヨシムラモータースは東京都西多摩郡福生町(現在の福生市)に移転し、ヨシムラ・コンペティション・モータースと名称を改めた。福生の工場は横田基地のすぐそばにあり、1階に15坪ほどの作業スペースと2階に6畳と4畳の居住スペースをもつ、風呂無し共同トイレの小さな建物であった。1965年シーズンを順調にこなしていくと、10月にロードレース世界選手権、日本グランプリと併せて開催されていた第3回ジュニアロードレース大会で快走する和田将宏の走りが、日本グランプリを視察に訪れていた本田宗一郎の目に留まった。自陣営のマシンより速い吉村のマシンに驚いた本田宗一郎は研究所で一度マシンを計測させてもらうよう、現場の人間に指示した。和光研究所にマシンは移送され、シャシダイナモにかけてみると、ノーマルエンジンが24ps、ホンダワークスのエンジンが27psを発揮するところ、吉村の手がけたそのCB72のエンジンは32.7psを発揮していた。この性能の高さには息をのむ者もいたが、ワークスチームが手掛けたマシンがプライベーターに圧倒されているという不甲斐なさを本田宗一郎は厳しく叱責した。このような事件から、ホンダ内部には吉村に対して疎ましく感じるものが現れ、十分なバックアップが得られない事態になっていった。レースで結果を出すほどにバックアップが得られなくなる不可解さに吉村は本田宗一郎への直談判を決意。自ら和光研究所へ赴き、初めて本田宗一郎と会うことになった。吉村が円滑な部品供給が図られるよう頼むと、事態を知った本田宗一郎は再び激怒。しかし、吉村に対して一度敵対心を抱いた一部の人間との軋轢は容易には解消せず、1966年にはRSC(Racing Service Center)を設立し、モータースポーツでのカスタマーサービスを一元管理する方針がとられた事や、鈴鹿サーキットと富士スピードウェイの間でのレース開催の誘致合戦、富士での30度バンクにおける安全性の欠陥を理由とするホンダ勢によるボイコットと、それに対する和田将宏の造反行為など、様々な要素が複雑に重なりあい、一時はヨシムラへの部品供給停止、和田のカワサキへの移籍というところまで事態は悪化した。
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