ホンダF1創設時代とは? わかりやすく解説

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ホンダF1創設時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 02:43 UTC 版)

川本信彦」の記事における「ホンダF1創設時代」の解説

1963年大学卒業し本田技研工業入社入社理由軽飛行機技術者応募広告見て応募した入社当初は後にホンダ3代目社長となる久米是志助手として、ホンダ初の四輪市販車型式:AS280(後の商品名S500)」「型式:AK250(後の商品名T360)」のエンジン開発携わる1964年当時のF2用1,000ccエンジン久米と共に開発、翌1965年からヨーロッパF2に参戦するブラバムチームに供給開始1966年には久米・川本の手がけたF2エンジン搭載したブラバムチームの車がF2で開幕11連勝を飾る。この頃F2エンジン開発傍ら入交昭一郎と共に生沢徹運転するS600チューンアップを手がけたりもしている。 1967年ホンダF1エンジン責任者就任水冷3,000ccエンジンの設計任されるが、この頃本田宗一郎空冷エンジンによるF1参戦計画詳しくホンダ・RA302参照)を提唱したため、水冷エンジン開発後回しにされるなどの不運重なりレース成績芳しくなかった1968年一杯第1期F1参戦終了すると、市販車設計部門移動しホンダ・1300ライフ初代)などのエンジン設計担当する。しかし、レース車両を手がけたいという思い強く1972年1970年との説もある)の年末にはコスワースへの転職画策しロンドン渡り帰国後すぐにホンダ辞表提出したその後2ヶ月ほど出社しなかったものの(その間自宅レース用エンジン設計図描いていた)、最終的に久米是志慰留される形でコスワースへの転職断念したその後1973年に、ホンダ在籍しながら本田博俊と共に株式会社『無限』(現:M-TEC)を創業同年にはFJ1300向けのエンジン開発して無限から供給開始する(この時メカニックとして無限に出向した人物市田勝己(現・株会社ケーヒン専務)がいた)。1976年には本田技術研究所取締役になる。

※この「ホンダF1創設時代」の解説は、「川本信彦」の解説の一部です。
「ホンダF1創設時代」を含む「川本信彦」の記事については、「川本信彦」の概要を参照ください。

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