F1参戦計画
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「スチュワート・グランプリ」の記事における「F1参戦計画」の解説
ジャッキーはマトラとティレルで3度F1チャンピオンを獲得した際、いずれもフォード・コスワース・DFVエンジンを使用しており、現役引退後もフォードのコンサルタントを務めていた。1995年当時、フォードはベネトンがルノーエンジンにスイッチしたため、ZETEC-Rエンジンの供給先をザウバーに切り替えたが、成績には満足していなかった。スチュワート親子はフォードの全面的な支援のもとPSRがF1に進出するプロジェクトを提案し、1995年のクリスマス前にフォードから承認された。1996年1月にスチュワート・グランプリの計画が発表され、1997年の参戦にむけて準備が進められた。 当時、ほかにも国際F3000からF1に挑戦した新興チームはいたが、ジョーダンの成功を除けば、オニクス、パシフィック、フォルティなど、みな資金不足と非力なマシンで苦戦を強いられていた。その中でスチュワートはフォード(コスワース)からワークスZETEC-Rエンジンを独占供給され、資金面も香港上海銀行 (HSBC) やテキサコ石油、マレーシア観光局といった国際的な大口スポンサーを獲得する手際の良さが光っていた。また、同じ1997年にはアラン・プロストがリジェを買収してプロスト・グランプリを興しており、元F1王者が指揮する2チームとして比較された。
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