F1参戦以後
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1984年 ティレルからF1デビューを果たした。この年のティレルは自然吸気エンジンを使用していたが、F1ではハイパワーなターボ・エンジンが主流になっており、非力な自然吸気エンジンを使用していたのは、ティレルとアロウズだけになっていた。シーズンが進むとアロウズもBMWのターボエンジンと契約成功したため、ティレルが最後の自然吸気使用チームになった。ベロフは、第3戦ベルギーグランプリで6位に入り初入賞を記録すると、続く第4戦サンマリノグランプリでも5位に入賞した。 第6戦モナコGPでは、予選20位から追い上げ、3位表彰台を獲得。このレースは豪雨のために31周終了時点で打ち切られたが、終了時にベロフは2位のセナの13秒差、そしてトップのアラン・プロストの21秒差につけていた。またこのレースでのベロフのペースは、トップのプロストより明らかに速く、セナとほぼ変わらないものであった。加えて、セナはスタート前にガソリン漏れで背中を火傷しており、ギアボックスにもトラブルを抱えていたため、『本来の周回数だった77周は無理でも、せめて全周回数の75%である規定周回数の58周まで続いていればベロフが優勝しただろう』ともパドックでは囁かれていた。 ターボエンジンへの切り替わりに遅れたティレルの車両ながら入賞圏内で複数回ゴールし、順調なデビューイヤーだったが、第8戦デトロイトグランプリにて、チームがレギュレーションに違反する行為により、エンジン出力を挙げていたことが発覚(「水タンク事件」)。これによって、ティレルの成績はドライバー、チームともシーズンの全成績を抹消され、シーズン終盤の出場も禁止された。 波乱のルーキーシーズンとなったF1と並行し、それまで通り世界耐久選手権にも参戦。この1984年シーズンの全9戦中5勝をマークし、ドイツ人初のチャンピオンに輝いた。 1985年 F1には、前年の不祥事によりスポンサーの殆どが撤退したティレルから参戦。自身の初陣となった第2戦ポルトガルグランプリでは、豪雨の中序盤にマンフレッド・ヴィンケルホックと接触して右フロントウイングを失いながらも6位に入賞した。また第6戦デトロイトグランプリでは4位に入るなど、戦闘力面で苦戦する中で奮闘していた。シーズン中は翌シーズンに向けてフェラーリと交渉していた。 世界耐久選手権では、ポルシェのワークスチームを離れ、プライベーターのポルシェ・956で参戦していた。
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