シムテック
FIAのテクニカルリサーチを行っていたシムテック・リサーチ社が結成したレースチーム。1994年からF1グランプリに参戦した。チーム代表はニック・ワース、本拠地はイギリス・バンバリー。マシンはエンジニアとして高い評価を受けるワース自身の設計による。当初、チームはデビッド・ブラバムとローランド・ラッツェンバーガーのドライバーラインアップでスタートしたが、サンマリノGPでラッツェンバーガーが事故死、その後数人のドライバーが参加している。例年の日本GPでは井上隆智穂がグランプリデビューを果たした。しかし、チームは財政難のため95年モナコGPを最後にF1から撤退した。
シムテック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/06 23:51 UTC 版)
シムテック(Simtek) は、かつて存在したイギリスのF1コンストラクターおよびレーシングチーム。1994年から1995年にかけてF1世界選手権に参戦した。代表はシャーシデザイナーでもあるニック・ワース。
- ^ SIMTEK 1994F1総集編 AS+F 82-83頁 三栄書房 1994年12月14日発行
- ^ THE STORY OF THE BMW S192 AND THE BRAVO S931 UNRACED 1990-1999 2015年7月12日
- ^ Zeitungsnotiz vom 25. Februar 1993 (2014年6月17日閲覧)
- ^ Abbildung eines Modells des Bravo S931 (2014年6月17日閲覧)
- ^ チェックアップ・ザ・ポテンシャル SIMTEK 最後のハードルは資金力 F1グランプリ特集3月号 48頁下段 ソニーマガジンズ 1994年3月16日発行
- ^ クリステンセンとチーバーがF1へ? F1デビューのうわさを本人に直撃 Racing OnNo.173 15頁 1994年8月26日発行
- ^ グーノンは元々開幕戦からシムテックで参戦予定であり当初FIA発表のエントリーリストにも名前があったが、開幕直前にチームがラッツェンバーガーへと変更したためデビューが延期となっていた。
- ^ 交渉中のクリステンセンも「一部の報道にあった通り交渉しているんだけど、結局持ち込めるおカネの金額次第という感じなんだ」と述べていた Racing On No.173 15頁 1994年8月26日
- ^ "ワース「オールCFDのアプローチをF1で成功させたい」". オートスポーツ.(2009年12月16日)2013年3月19日閲覧。
- ^ "ヴァージン、ニック・ワースを解雇". STINGER.(2011年6月3日)2013年3月19日閲覧。
- 1 シムテックとは
- 2 シムテックの概要
- 3 主なスポンサー
シムテック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 04:33 UTC 版)
「1994年のF1世界選手権」の記事における「シムテック」の解説
この年新規参戦を果たしたチームの一つ、シムテックは重大なる事故の当事者となってしまうこととなった。前述の通り第3戦サンマリノGP予選にてローランド・ラッツェンバーガーがフロントウイングの脱落によってコントロールを失ってクラッシュし、死亡してしまう重大なる事故が発生。さらに、第5戦スペインGP予選でもラッツェンバーガーの死亡により空いたシートを得たアンドレア・モンテルミーニがフリー走行にてクラッシュし足を負傷するなど、立て続けに事故が続いてしまっている。レースでは共に新規参戦を果たしたパシフィックチームには競り勝ち、予選落ちは2回のみと、ほぼ全てのレースにて決勝に駒を進めたものの、資金難の中にあってレギュレーション変更に対応するのが精一杯となり、このシーズンはテールエンダーが定位置となってしまった。
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シムテック
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1989年、マックス・モズレーと共同でシムテック・リサーチを設立。元々はサードパーティーのF1チーム向けに風洞設計やシャーシ製造等、フォーミュラ1カー製造の多くの分野に携わっていた。ワースはそれまでモズレーがチームオーナーを務めるマーチに雇用されていたが、シムテックの設立によりマーチから自立する形となった。 ワースは当初リジェ等のF1チームや、多くのフォーミュラ3000チームから研究開発を請け負い、モズレーの縁故で国際自動車スポーツ連盟(英語版)(FISA)からの仕事も多くこなした。1990年には、当時エンジンコンストラクターとして活動していたBMWのF1参戦計画に参画したが、程なくこの計画が頓挫した為、やむなく1991年はドイツツーリングカー選手権(DTM)にBMWが投入していたBMW・3シリーズの製作に携わる事となった。1992年、モズレーが国際自動車連盟 (FIA) 会長に就任したのを機に、彼が所有するシムテックの全株式を譲り受け、ワースがシムテックを単独で経営する事となる。同年、元々は1990年のBMWのF1マシンとして計画していた設計をアンドレア・モーダからの依頼により「アンドレア・モーダ・S921」として復活させ、1992年シーズンに参戦するも、チーム体制の問題によりS921は殆どまともにサーキットを周回する事も出来ないまま、オーナーのアンドレア・サセッティの逮捕によりチームはF1を追放されて消滅した。その後、ワースは1993年にスペインのブラボF1(ドイツ語版)チームのマシン「S931」を開発したが、1993年シーズン開幕前にオーナーのジャン=フランソワ・モニエが急死した事により参戦計画が頓挫してしまい、ブラボ・S931は日の目を見る事は無かった。 この年までの経過から、ワースは自らチームを運営しなければ自身が設計したマシンを十分な体制の下で走らせる事が出来ないと判断し、1993年にシムテック・グランプリを新たに設立、1993年10月から1995年6月まで、ワースはシムテック・グランプリの創業者兼オーナー兼テクニカルディレクターに就任、F1チームとしては1994年のF1世界選手権から参戦した。シムテック・リサーチはチームの整備とマシン設計の双方を担当した。 しかし、シムテックは当初のシーズンからローランド・ラッツェンバーガーの事故死などの困難な状況や資金難に苦しみ、結局1995年の中途で破産。撤退を余儀なくされ、ワースも一時F1から離れる事となった。
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