プロスト・グランプリ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/04 13:24 UTC 版)
プロスト・グランプリ(Prost Grand Prix)は、1997年から2001年までF1に参戦したフランスのレーシングチーム。同じフランスのリジェを買収して誕生した。創設者兼オーナーは元F1ドライバーのアラン・プロスト。
- ^ 一部ではリジェ買収という噂もあった
- ^ これは当時のF1のエンジンレギュレーションと共通していた。
- ^ このあたりの話は当時バーナードの片腕と呼ばれた、サスペンション技術者の寺本浩之が著した『疾風 ウイニング・ラン』(ワニブックス)に詳しい。
- ^ リジェを長年支援していたのは社会党政権のフランソワ・ミッテラン大統領であり、プロスト・プジョー設立に協力したのは、1995年に発足した共和国連合政権のジャック・シラク大統領だった。
- ^ 『Racing On Archives vol.07 マンセルとプロスト』、イデア、2012年、104頁・170頁。
- ^ 『レ-シングオン452 アラン・プロスト』
- ^ 『Racing On Archives vol.07 マンセルとプロスト』、174頁。
- ^ "プロストGPがついに倒産、ブリアトーレが引き継ぎか?". Response.(2001年11月27日)2013年4月28日閲覧。
- ^ a b “プロスト・グランプリが消滅「だめだったか」”. Response. (2002年1月30日) 2011年6月14日閲覧。
- ^ “F1マレーシアGPから12チーム目が登場?”. Response. (2002年3月13日) 2011年6月14日閲覧。
- ^ “謎のF1チーム「フェニックス」、マレーシアに現る”. WebCG. (2002年3月14日) 2011年6月14日閲覧。
- ^ “FIAは新チームのエントリーを認めず”. Response. (2002年3月14日) 2011年6月14日閲覧。
- 1 プロスト・グランプリとは
- 2 プロスト・グランプリの概要
- 3 型式番号
- 4 関連項目
プロストグランプリ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 07:35 UTC 版)
「1997年のF1世界選手権」の記事における「プロストグランプリ」の解説
前年シーズンオフにアラン・プロストはリジェチームを買収し、スタッフを引き継ぎプロスト・グランプリとして船出を果たした。エンジンは前年に引き続き無限ホンダエンジンで戦い、ドライバーは参戦4年目を迎えたオリビエ・パニスと無限の後押しにて日本人の中野信治がデビューをしている。パニスはこの年はブリヂストンタイヤの力もあって、第2戦ブラジルGPから3戦連続で予選5位以内を確保し、決勝でもブラジルGPで3位、スペインGPでは2位とシーズン前半に2度表彰台に立つなど活躍。しかし、パニスはカナダGPにて大クラッシュを喫してしまい両脚骨折の重傷を負ってしまう。シーズン中の復帰は果たすものの、負傷によって第8戦フランスGPから第14戦オーストリアGPまで長期欠場を余儀なくされた。このパニスの欠場によって、急遽ピンチヒッターとしてミナルディから新人のヤルノ・トゥルーリを借り受けている。トゥルーリは第10戦ドイツGPにて4位に入り初入賞を達成すると、予選3位からスタートした第14戦オーストリアGPでは最終的には自らもエンジンブローにてリタイアとなってしまうが、トップのハッキネンが1周目に早々とエンジンブローしたこともあって1回目のピットストップまでトップを快走する活躍を見せた。トゥルーリはパニスの復帰に伴いシートを失ってしまうも、プロストから高く評価され翌年もプロストグランプリから参戦することになった。
※この「プロストグランプリ」の解説は、「1997年のF1世界選手権」の解説の一部です。
「プロストグランプリ」を含む「1997年のF1世界選手権」の記事については、「1997年のF1世界選手権」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
フランスのレーシングチーム | リジェ DAMS プロスト・グランプリ ルノーF1 ARTグランプリ |
- プロスト・グランプリのページへのリンク