ガストン・マッツァカーネとは? わかりやすく解説

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ガストン・マッツァカーネ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/06 00:38 UTC 版)

ガストン・マッツァカーネ
Gastón Mazzacane
ガストン・マッツァカーネ
(2018年)
基本情報
フルネーム ガストン・ウゴ・マッツァカーネ
Gastón Hugo Mazzacane
略称表記 MAZ
国籍 アルゼンチン
出身地 同・ブエノスアイレス州ラプラタ
生年月日 (1975-05-08) 1975年5月8日(49歳)
F1での経歴
活動時期 2000-2001
所属チーム '00 ミナルディ
'01 プロスト
出走回数 21
タイトル 0
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 2000年オーストラリアGP
最終戦 2001年サンマリノGP
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ガストン・ウゴ・マッツァカーネ西: Gastón Hugo Mazzacane, 1975年5月8日 - )は、アルゼンチン出身のレーシングドライバー2000年2001年F1世界選手権へ出走した。

プロフィール

ミナルディ・M02をドライブするマッツァカーネ

ロードツーリズムレースで活躍した、レーシングドライバーのヒューゴを父に持つ。南アメリカF3、イタリアF3、国際F3000を経て1999年にF1ミナルディのテストドライバーとなり、2000年からセカンドドライバーとしてF1デビュー。F1ルーキーだったがチームメイトのマルク・ジェネより良いパフォーマンスを見せたグランプリもあり、17戦中11戦で完走。入賞はなかったが同シーズンに参戦した全23人中3番目に多いラップ数を記録した。アメリカGPではウェットからドライにタイヤ交換するタイミングを遅らせるミナルディ・チームの好判断もあり、一時3位を走行して2年連続チャンピオンのミカ・ハッキネンを抑える走りを見せた。

2001年1月にアロウズをテスト走行させた後、同月中にプロストのセカンドドライバーとして出走することが決定。しかし、チームメイトのジャン・アレジに比べて低調な成績だったことを理由に、5月の第4戦サンマリノGPを最後にプロストがルチアーノ・ブルティとのドライバー交代を決断しシートを失った。

2002年、F1に新しく参戦すると期待されたチーム、フェニックスと契約をするが、チーム自体F1に参戦することはなかった(フェニックス自体、前年に経営破綻したプロスト・グランプリの資産をトム・ウォーキンショーらが買い取ったもので、チームとしての実体はないに等しかった)。

その後、アメリカに渡り2004年にチャンプカー・ワールド・シリーズに参戦。73ポイントを獲得し、シーズン17位であった。

2005年以降は南米に戻ってトップレースV6、フォーミュラ・トラック、ロードツーリズムなどに参戦した。

レース戦績

国際フォーミュラ3000

エントラント 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 DC ポイント
1996年 オート・スポーツ・レーシング NÜR
Ret
PAU
DNQ
PER
14
HOC
Ret
SIL
11
SPA
19
MAG
Ret
EST
10
MUG
Ret
HOC
Ret
22位 0
1997年 SIL
10
PAU
DNQ
HEL
Ret
NÜR
10
PER
15
HOC
10
A1R
17
SPA
11
MUG
10
JER
Ret
28位 0
1998年 チーム・アストロメガ
英語版
OSC
6
IMO
7
CAT
Ret
SIL
6
MON
12
PAU
9
A1R
Ret
HOC
Ret
HUN
Ret
SPA
DNQ
PER
13
NÜR
Ret
21位 2
1999年 GP・レーシング
英語版
IMO MON CAT MAG SIL
DNQ
A1R HOC HUN SPA NÜR NC 0

フォーミュラ1

エントラント シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 WDC ポイント
2000年 ミナルディ M02 フォンドメタル RV10 3.0 L V10 AUS
Ret
BRA
10
SMR
13
GBR
15
ESP
15
EUR
8
MON
Ret
CAN
12
FRA
Ret
AUT
12
GER
11
HUN
Ret
BEL
17
ITA
10
USA
Ret
JPN
15
MAL
13
NC 0
2001年 プロスト AP04 エイサー 01A 3.0 L V10 AUS
Ret
MAL
12
BRA
Ret
SMR
Ret
ESP AUT MON CAN EUR FRA GBR GER HUN BEL ITA USA JPN 25位 0

アメリカン・オープン=ホイール

チャンプカー

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 ランク ポイント
2004年 デイル・コイン・レーシング LBH MTY MIL
16
POR
13
CLE
12
TOR
6
VAN
18
ROA
18
DEN
15
MTL
12
LS
13
LVS
15
SRF MXC 17位 73位

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5
2000年テレフォニカがメインスポンサーに就任。新車M02はF1界初のチタン鋳造ギアボックスケーシングを採用して注目された。フォードV10の使用権を買い取り、フォンドメタルエンジンとして搭載した。ドライバーはジェネとガストン・マッツァカーネ。ノーポイントに終わるが、アメリカGPでは雨中でマッツァカーネがミカ・ハッキネンと一時3位争いを展開した。深刻な経営難のため、オーナーのルミはパンアメリカン・スポーツ・ネットワーク へチームを売却しようとしたが失敗。2001年になっても売却先が見つからず、チームスタッフも消滅を察知してかファエンツァを去り始めていた。そこへヨーロピアン航空社長のポール・ストッダートが救いの手を差し伸べ、2001年2月にようやく参戦継続が決定した。2001年ストッダートが新オーナーに就任し、チーム名を「ヨーロピアン・ミナルディ」、マシンの名称を自身のイニシャルにちなんだPS01と改め再出発を図る。ドライバー集めやマシン製作などに割く時間は限られていたが、短期間で開幕戦出場にこぎつけた。創始者のジャンカルロ・ミナルディは育成担当マネージャーとしてチームに残ったが、デザイナーのグスタフ・ブルナーは翌年よりF1参戦を控えていたトヨタにヘッドハントされた。ドライバーは出戻りのタルソ・マルケスと、ブリアトーレがマネージメントを担当する新人フェルナンド・アロンソ。アロンソはしばしばベネトンを予選で上回り、決勝では追い掛け回すほどの走りを見せ、その後の活躍への片鱗を見せた。終盤2戦はマルケスに代わり、マレーシアの政府系スポンサーを持ち込んだアレックス・ユーンがドライブした。2002年
34% |||||






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