チーム消滅
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この結果を受け、オーナーのスティーブン・フィッツパトリックはチームの売却を進め、新しい投資家と基本合意に達したことを明らかにしたが、売却先については公表されなかった。しかし、新たな投資家との最終的な交渉はまとまらず、翌2017年1月6日に運営会社が破産を申請。破産申請の時点では212名のスタッフは解雇されておらず給与も12月末までは支払い済みとなっており、暫定エントリーリストにもマノーは掲載されていたが、同月27日になっても交渉はまとまらず、全スタッフへの1月分の給与支払い及び一部スタッフを除く解雇とチーム消滅が決定した。交渉が成立した場合、序盤は前年のMRT05の改良版で戦い、新車「MRT06」を投入する予定であったが実現しなかった。
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チーム消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 03:48 UTC 版)
1993年は本格的なフルアクティブサスを搭載した前年の熟成型マシン107Bを開幕から投入するが、アクティブサスの開発は多額の資金を必要とした上にセッティング作業は難航した。エンジンは前年に引き続きフォードHBエンジンではあったが、ベネトンとマクラーレンが使用するものとは異なり、2バージョン落ちのカスタマーエンジンであった。そのため、ワークスエンジンを搭載しているチームとは最高速に隔たりがあったが、ハーバートが3度の4位入賞など力走。チームメイトのアレッサンドロ・ザナルディも時に速さを見せたが、ベルギーGPで大クラッシュを起こし以後療養が必要となり、スポンサーを持ち込んだ新人ペドロ・ラミーにシートを譲った。また、前年からのメインスポンサーのカストロールからの資金も決して潤沢ではなく、アクティブサスの熟成作業とセッティングに終始苦労し続けるうちにシーズンが終了した。 1994年は無限ホンダV10エンジンを新たに獲得し、シーズン中盤の第5戦スペインGPからは新車109を投入するも、カストロールが前年限りでスポンサーを降り、代わりとなる大口スポンサーの獲得もできなかったため、1992年から継続してスポンサーを続ける塩野義製薬の他に、新たにトミー・ヒルフィガーやロックタイトなど多数の中規模スポンサーを得たものの、深刻な資金難に陥っていた。この年は第3戦サンマリノGPで起きたアイルトン・セナの死亡事故など度重なる重大なアクシデントによる影響で、シーズン途中にも関わらず大幅な車両レギュレーション改定が実施されたためにその対応に追われ、マシンを改良するためのテストも資金不足から十分に出来ず苦戦を強いられた。 ドライバーは、契約の残るハーバートは残留したが、もうひとつのシートはドライバーの持参金によって決まるような状況となり、この年にロータスより参戦したドライバーは延べ6人にのぼる。新スペックのエンジンが投入された第12戦イタリアGPでは、予選でハーバートが4位と奮闘したが、成績ではこれが唯一の光であった。109は決勝レースではシーズンを通して6位以内入賞を果たすことができず、ロータスにとってF1参戦開始以後初となる年間ノーポイントに終わる。同年はこうした成績面だけでなく財政的にも重大局面を迎えており、シーズンも終盤になると参戦を継続するために裁判所へ破産申請を出し、イギリス高等法院の財産管理下に入った。 負債返済のため第14戦ヨーロッパGP直前に管財人が“ロータスにとって最も高価な財産”であったエースドライバーのハーバートの契約をフラビオ・ブリアトーレが新オーナーとなっていたリジェチームへと売却してしまった。第15戦日本GP開催中には、チームがアメリカ人実業家に売却され再建するプランが持ち上ったが、それも暗礁に乗り上げる。シーズンが終了すると11月に会社更生法の適用が発表され、債権者の一人としてデヴィッド・ハント(1976年F1チャンピオン・ジェームス・ハントの弟)が新オーナーの一人としてチーム入り。新たな出資者へのアプローチや、活動休止を避けるために当時F1に参戦していたパシフィックチームとの合併などの再建策が模索されたが、12月からはチームスタッフのレイオフが進行し主要エンジニアの他チームへの流出も本格化、年が明けた1995年1月17日にはとうとう残っていた全従業員に解雇が通告されると同時に、F1参戦を断念することが発表された。 これによって1995年に向けてクリス・マーフィーがデザインしていたニューマシン112は幻のマシンとなった。 1995年シーズンは、新オーナーとなったデヴィッド・ハントが、パシフィックチームに実質名義貸しを行い、「パシフィック・チーム・ロータス」としてエントリーシートに名前こそ残ったが、あくまで商標権が提供されただけであり、チームの実体にロータスの関わりは一切なかった。そのパシフィックも財政難を理由にこのシーズン限りで撤退してしまう。デヴィット・ハントは、F1休止を1年に留めて1996年から復帰すべくスポンサー獲得活動を継続すると声明を出していたが、実現しなかった。
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チーム消滅
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「プロスト・グランプリ」の記事における「チーム消滅」の解説
資金的にも苦境に追い込まれたプロストは、ディニスにオーナーの座を譲り、ルノーのセカンドチームに転じるという策を模索したが、ディニスが2001年夏にチームを離脱したため不成功に終わった。2001年11月27日、プロストはベルサイユの商業裁判所に自己破産を申請。裁判所の管理下で新たな出資者を探しつつ、新車AP05の開発を続けた。しかし、裁判所が再建不可能と判断し、2002年1月28日にチーム消滅が決定した。負債総額は2000万ポンド(約37億円)であった。一時はイギリスのビジネスマンであるチャールズ・ニッカーソン率いる「フェニックス・ファイナンス」がチームの資産を買い取り、「フェニックス・グランプリ」との名称でF1に参戦するとの情報が流れた。ドライバーはタルソ・マルケスとガストン・マッツァカーネと契約し、ニッカーソンと関係があるトム・ウォーキンショー率いるアロウズ(ハート)製エンジンを搭載したAP04を2002年第2戦マレーシアGPに持ち込んだが、国際自動車連盟 (FIA) は参戦を認めなかった。
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