F1復帰・引退
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「ナイジェル・マンセル」の記事における「F1復帰・引退」の解説
1994年、ウィリアムズはアイルトン・セナの事故死後、セナの代役としてデビッド・クルサードを起用したが、F1人気低下を懸念するバーニー・エクレストンの仲介でマンセルに復帰を持ちかけた。マンセルはCARTのシーズン中、日程に影響のない第7戦フランスグランプリにスポット参戦し、予選2位を獲得(決勝はリタイア)。さらにCARTのシーズン終了後、第14戦ヨーロッパグランプリから残りの3戦に再登場した。第15戦日本グランプリでは豪雨の中、ジャン・アレジとの長い3位争いで一歩も引かぬバトルを演じ、健在ぶりを示した(ちなみに、これがマンセルの鈴鹿での唯一の完走でもある)。最終戦オーストラリアグランプリではポールポジションを獲得し、決勝はチャンピオンを争うデイモン・ヒルとミハエル・シューマッハを先行させ、2人の相打ちを尻目にポールトゥーウィンを達成した。ウィリアムズのコンストラクターズタイトル防衛に貢献し、結果的にこれがF1での最後の勝利となった。F1での出走にあたり、ニューマンハースとウィリアムズとの間に、CARTと重ならない日程でF1に出走する・競合するライバルメーカーのロゴを付けない(エンジンのルノーはフォード・燃料のエルフはテキサコ)という契約がなされたので、マンセルのレーシングスーツにはそれらのロゴは入っていなかった。 1995年はアメリカ・フロリダ州からマン島に戻り、ウッドベリーパーク・ゴルフクラブの近くへ住居を移し、本格的にF1に復帰する体勢でいた。しかしクルサードがマクラーレン入りを画策した際、所属チームのウィリアムズが提訴をし、裁判の末若くて給料の安いデビッド・クルサードの残留が決定した。 結局これまでの長いF1生活で初めてとなるマクラーレンと契約を結ぶこととなった。この契約の背景には、マクラーレンのタイトルスポンサーであるマールボロがチャンピオン経験者の起用を望んでいたとされる。しかしコックピットが狭いとの不満を漏らして開幕2戦を欠場した。第3戦サンマリノグランプリから参戦するも、このシーズンから新たにメルセデス・ベンツエンジンを搭載したマシン、MP4/10の競争力が低いことや、マシン特性を克服できず予選でチームメイトのミカ・ハッキネンを上回れないこともあり、モチベーションを失った。第4戦スペイングランプリをリタイアした後、マクラーレンからの離脱を表明した。 過去2度とは異なり正式な引退表明はしていないが、その後は事実上、F1から引退した状態になっている。1996年12月にジョーダンにて髭を剃った姿でテストを行い、再々復帰も噂されたが実現に至らなかった。
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F1復帰・引退
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「ペーター・ザウバー」の記事における「F1復帰・引退」の解説
2009年限りでBMWがF1からの撤退を表明。チーム消滅の危機となったが、ザウバーがチームを買い取り、再びオーナー兼チーム代表に就任した。2010年より再びザウバーチームとして参戦したが、女性CEOのモニシャ・カルテンボーンに陣頭指揮を任せて、レース現場に姿を見せない機会が増えた。高齢のザウバーは「70歳になってもピットウォールに座っていないだろう」と引退をほのめかした。 2012年、ザウバーはカルテンボーンにチーム株式の1/3を譲り、シーズン終盤には69歳の誕生日を前にしてチーム代表を彼女に託し、第一線から退くことを表明した。ザウバーグループの取締役会議長は引き続き勤める。この決断をしたのは日本GPで小林可夢偉が3位表彰台を獲得した直後だったと語っている。その後、チームは資金難やドライバー多重契約などのトラブルで存続の危機に瀕したため、2016年7月20日、チームの所有権を共同株主だったスイスのロングボウ・ファイナンスS.A.に譲渡することが決まったのを機に、すべての業務から完全に引退することになった。
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