F1復帰に至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 14:45 UTC 版)
「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「F1復帰に至る経緯」の解説
「ザウバー」および「#グループC(1985年 - 1991年)」も参照 1988年にワークス活動を再開し、ザウバーとともにスポーツカー世界選手権を戦っていたメルセデス・ベンツ社だったが、F1への復帰は公式には否定していた。F1に参戦しない理由として、もしF1ですぐに勝てたとすればそれなりに評価されるかもしれないが、もしすぐに勝てなければそれは失敗とみなされることになり、メルセデス・ベンツにとっては得るものより失うもののほうが大きい(から参戦しない)、という説明がされていた。 表向きはF1参戦を否定しつつも、メルセデス・ベンツはF1参戦に向けた準備をザウバーと共に密かに進めていた。この計画は1991年にはF1の現役デザイナーであるハーベイ・ポスルスウェイト、マイク・ガスコインらを迎え、150名のエンジニアを擁して車体とエンジンの開発を行うほどに進展した。メルセデス・ベンツ側では当初はF1車両にグループC用に開発していた180度V型12気筒エンジン(M291エンジン)の搭載を計画していたが、ポスルスウェイトは車体後部の設計を著しく制限することになるこのエンジンの使用に反対し、コスワースのV8エンジンかイルモアのV10エンジンを搭載するよう勧めた。これにより、メルセデス・ベンツはイルモアとの提携に向かうことになった。 ザウバーにおける準備は順調に進捗し、1991年12月にF1参戦を発表する予定だったが、その直前に事態が急転する。当時ダイムラー・ベンツ傘下だったAEGの経営悪化により、グループ全体で数千人規模の人員解雇をせざるを得ないほど厳しい状況に陥ったため、同年11月28日、メルセデス・ベンツ社社長のヴェルナー・ニーファーは「F1参戦しない」ことを声明した。 この決定によりメルセデス・ベンツから出向していた技術者たちやポスルスウェイトは去っていったが、ザウバーの経営者であるペーター・ザウバーはF1参戦をあきらめず、ザウバー単独でプライベーターとして参戦する計画を進める。他方、メルセデス・ベンツ社では、参戦発表をする土壇場に親会社のダイムラー・ベンツの意向で決定された計画白紙化への反発から、モータースポーツ部門の責任者(レースディレクター)だったヨッヘン・ニアパッシュは同社を去り、ノルベルト・ハウグが後任となる。メルセデス・ベンツはザウバーと結んでいた長期契約を尊重して資金提供を行うことでザウバーのF1参戦を支援し、同時に、ハウグはザウバーのためのスポンサー探しに奔走した。 そうして、ザウバーは1993年にF1初参戦にこぎつけた。ザウバーが発表したF1車両の「C12」はイルモアのエンジンを搭載したが、そのエンジンカバーには「Concept by Mercedes-Benz」の文字が掲げられ、その背景は特に説明されなかったため、憶測を呼ぶことになる。
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