F1戦歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 06:19 UTC 版)
「カルロス・ロイテマン」の記事における「F1戦歴」の解説
1972年にブラバムからデビューした後、1974年、ゴードン・マレーの意欲作ブラバムBT44を駆って、南アフリカグランプリで初優勝を飾ると、その年3勝を挙げる。翌1975年は、6度の表彰台に上がり、ドライバーズランキングでニキ・ラウダ、エマーソン・フィッティパルディに次ぐ3位に入りトップドライバーの仲間入りをする。 1976年にブラバムがエンジンをフォードからアルファロメオに変えたところ戦闘力が低下。シーズン中盤のラウダの事故によりフェラーリから誘いをうけ、ブラバムとの契約を“買い戻し”イタリアGPにはフェラーリから出走。そのまま翌年にはフェラーリに移る。 フェラーリ移籍1年目の1977年にはニキ・ラウダと共に闘いコンストラクターズチャンピオンを獲得。ラウダが不満を言うほどの好待遇で迎えられ、これがラウダ離脱の一因とも言われる。(実際、チームに嫌気のさしたラウダはチャンピオン獲得を決めるとフェラーリを出て行ってしまった) ラウダの抜けた後はチームリーダーとして活躍するが、歯に衣きせぬ物言いからエンツォ・フェラーリや、エンジニアのマウロ・フォルギェーリを初めとするチーム首脳に疎まれるようになった。またラウダの代わりに加入したジル・ヴィルヌーヴが、そのアグレッシブな走りからチームに支持されるようになり、ロイテマンは徐々に居場所を無くしていく。結局シーズン4勝したものの、1978年限りでフェラーリから放出され、1979年は、ピーターソンの後釜としてロータスをドライブすることとなる。皮肉なことに、翌年のフェラーリ312T4の出来が良く、その一方でロータスのマシンの80は前年のチャンピオンカー79から一転して不振となり、ロイテマンは年間を通して79をドライブするも、結果としてチャンピオン獲得のタイミングを逃してしまった。 1年間のロータス在籍を経て、1980年からウィリアムズに移籍した。ウィリアムズではアラン・ジョーンズがナンバーワンで、ロイテマンはナンバーツーで、もし順位を争う場合にはジョーンズを先行させるという取り決めがあったとされる。1980年シーズンは、マシンに慣れているチームメイトの1980年チャンピオンになるアラン・ジョーンズの方が速く、後塵を拝することが多かった。翌1981年には序盤にチームオーダーを無視してジョーンズとの関係が悪化する。チームも2分され、ポイントをもジョーンズと取り合う形となってネルソン・ピケと激しくドライバーズタイトルを争うことになる。途中までリードしていたものの、1点リードで臨んだ最終戦のアメリカGPでピケ5位(2点獲得)、ロイテマン8位(ノーポイント)となり逆転負け、結局シーズン2位に終わる。結果的に1981年シーズンもチャンピオンを取る力は十分にあったもののチーム、チームメイトとの意思疎通によりチャンピオンを獲ることが出来なかった。 シーズン終了後に引退を発表したが撤回、1982年もウィリアムズに在籍するも、フォークランド紛争が激化しつつある中で、アルゼンチンの英雄であるロイテマンがイギリスのチームであるウィリアムズから参戦し続けるわけにもいかず、再び引退を表明することになる。この件について、ウィリアムズのエンジニアであったパトリック・ヘッドは、「フォークランド紛争は引退の方便であり、単にモチベーションが無くなったからだ」とコメントしている。 ロイテマンは、フェラーリ、ロータス、ウィリアムズと当時のトップチームを渡り歩きながらもタイミングやチームとの関係などからドライバーズチャンピオンになることは無かった。また、通算12勝を挙げたが、母国アルゼンチングランプリでは勝利することが出来なかった。 F1レーサーとしては気難しい事で知られ、レース直前のインタビューでも「難しいよ」と一言言って去る事が多かったと言われている。そのことが、フェラーリのエンジニアであったマウロ・フォルギエーリやウィリアムズのパトリック・ヘッドから疎まれ、結果を出しても評価されない原因となった。また、フェラーリ時代のチームメイトでもあったニキ・ラウダからは「奴は蛇のように冷たい」とまで言われていたともされる。
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