引退表明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 02:59 UTC 版)
「エドゥアルト・シュトラウス1世」の記事における「引退表明」の解説
1899年6月に兄ヨハンが死去すると、翌1900年12月、作品番号がちょうど300となることを節目に引退を表明する。1901年2月、父ヨハン1世以来70年以上にわたって続いてきたシュトラウス楽団を解散し、宮廷舞踏会音楽監督を降板した。ウィーンの新聞がエドゥアルトとシュトラウス楽団を「過去の遺物」と批判したことに立腹したことや、シュトラウス一家の末っ子として長年陰で地味に支えさせられたことへの不満や、自身の名前を無断使用したオーケストラが出現したことなどがシュトラウス楽団解散の原因であったとされる。なお、長男ヨハン3世はシュトラウス楽団の解散にともなって自身の楽団を組織した。 1906年、音楽家生活の回顧録『回想』を出版した。この本によれば、エドゥアルトは1869年に次兄ヨーゼフと「社会契約」という名の約束を交わしたという。その内容は、二人のうちの生き残ったほうは、未亡人の生活を支援することを条件に、故人のあらゆるオーケストラ用楽譜や音楽資料の演奏・所有の権利を獲得する。そして音楽活動をやめる際には、それらが第三者の手に渡るのを防ぐためにすべて破棄する、というものであった。 1907年10月、一家がオーケストラの演奏に使用してきた楽団所有の楽譜を、ウィーンの2つの陶器工場に持ち込んで窯炉で焼却処分した。1000曲を超える一家のオリジナル作品の自筆譜や、他の作曲家(マイアベーア、ヴェルディ、ワーグナー、ベートーヴェン、メンデルスゾーンら270人以上)の編曲譜が処分され、その総量は包みにして2547個、枚数にして70万枚から100万枚にも及んだ。最初の工場でエドゥアルトは、椅子に座っていらいらして目を背けたり、事務所との間を往復したりしながら、5時間かけて焼却に立ち会ったという。 当時の批評家はこのエドゥアルトの行為について、「彼はウィーンの歴史の一片を灰にしてしまった。比類なき音楽の宝物を、彼の生まれたウィーンから盗みとってしまったのだ」と痛烈に批判した。なお、一家の作品のほとんどはピアノ譜として出版されて広く出回っており、さらに写譜業者のもとにはコピーが残っていたため、楽譜の大部分は再構成されて現在に伝わっている。
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