宮廷舞踏会音楽監督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 02:59 UTC 版)
「エドゥアルト・シュトラウス1世」の記事における「宮廷舞踏会音楽監督」の解説
1870年に母アンナと次兄ヨーゼフが死んだことによって長兄ヨハンは気力を失い、しばらくして栄誉ある宮廷舞踏会音楽監督の職を降板してしまった。この時エドゥアルトはヨハンから役職を譲られ、1872年に兄の跡を引き継いで宮廷舞踏会音楽監督となった。 兄ヨハンは、演奏会のクライマックスに突然登場して、エドゥアルトに代わって指揮をすることもあった。また、エドゥアルトが引き受けるべき栄誉ある仕事を、ヨハンは平気で赤の他人に与えてしまうこともあった。これらの兄の無神経な行動にエドゥアルトは激しい怒りを抱いていたという。エドゥアルトとヨハン2世の関係はしばしば緊張した。 「 いったいいくつになったら、兄は決して敵なんかじゃないという気持ちになれるんだ。おまえがやたらと突っ張るせいで私たちの関係に時々ひびが入るが、おまえに対する兄貴としての情愛が変わっていないことは知っておいてもらいたい。(兄ヨハン2世の手紙、1892年) 」 1895年に作成されたヨハン2世の遺言書では、「恵まれた境遇にある」という理由で相続権を与えられなかった。エドゥアルトは1897年に妻子の浪費のせいで財政破綻したが、ヨハン2世の態度は変わらなかった。「エドゥアルトへの取り分を残さなかった理由は、今ではもうないわけだが、だからといって今さら変える気はない。弟の状況が良くなることを望むだけだ」 1898年12月、長男ヨハン・シュトラウス3世が音楽家としてデビューした。
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