1848年革命、ラデツキー行進曲
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「ヨハン・シュトラウス1世」の記事における「1848年革命、ラデツキー行進曲」の解説
1846年、ヨハンは宮廷舞踏会音楽監督に召し上げられた。2年後の1848年、三月革命が勃発した。宮廷舞踏会での役職を持つ身でありながらヨハンは革命側に与し、『自由行進曲』『学生連隊行進曲』などを相次いで発表した。『自由行進曲』の初版ピアノ譜からは、それまで必ず自分の名前とともに併記した「宮廷舞踏会・音楽監督兼指揮者」の肩書を外してすらいる。ヨハンは市民(ブルジョワジー)の一員として、宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒの抑圧体制を打破しようとしたのであった。 しかし革命運動はしだいに先鋭化してきて、革命の推進主体が市民から労働者(プロレタリアート)へと変わっていった。彼らはメッテルニヒの抑圧体制を打破しようとするのみならず、君主制の打倒を目指していた。陸軍大臣テオドール・ラトゥール(ドイツ語版)伯爵が殺害されて街灯に吊り下げられるなど、ウィーンはフランス革命後さながらの恐怖政治が展開される一歩手前まで来ていた。この事態にヨハンら市民は恐怖を覚えた。 ヨハンはリベラルな体制を望んではいたが、君主制の打倒を望んでいたわけではなかった。そのため、ヨハンはオーストリア帝国の英雄ヨーゼフ・ラデツキー将軍を讃える『ラデツキー行進曲』を作曲し、革命派からは裏切り者呼ばわりされることとなった。この行進曲のおかげで政府軍の士気は大いに高揚し、「ウィーンを革命から救ったのは、ヨハン・シュトラウスである」とまで言われるようになった。
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