1848年革命とユダヤ人解放
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「反ユダヤ主義」の記事における「1848年革命とユダヤ人解放」の解説
「ドイツにおける1848年革命」および「1848年のフランス革命」を参照 1848年、イタリア、フランス、オーストリア、ハンガリー、ボヘミア、ドイツ、デンマーク、スイスなどのヨーロッパ各地で1848年革命が起こった。 ドイツ三月革命では、ドイツ連邦の国家統一と憲法制定を目指して、民族的自由を獲得することが目指された。ドイツ革命の目標は、フランスが革命で実現した、階級や宗教にかかわりなく人民の権利が保障される共同体としての「国民」の実現であった。 選挙規則のないままであったが、選出された議員によるフランクフルト国民議会では四人のユダヤ教徒の議員がいた。フランクフルト国民議会副議長になったユダヤ人ガブリエル・リーサーはユダヤ人の平等権が実現していないのは「法に対する侮辱」と批判しながら「イスラエル民族」は虚構にすぎないと指摘して「ユダヤ教徒は公正な法律の下で、ますます熱烈な、そしてますます愛国的なドイツの信奉者となるでしょう」と演説し、満場の拍手で迎えられた。 他方で、ユダヤ教からルター派へと改宗した政治家フリードリヒ・ユリウス・スタールは、ユダヤ人は一般ドイツ人から隔離すべきだと主張してユダヤ人解放に反対し、ゲルラッハ兄弟とプロシア保守党を創設するなどした。またオットー・フォン・ビスマルク議員(のち宰相)は「私はユダヤ教徒の敵ではない」「私は彼らに対してどんな権利も惜しまない。ただ彼らがキリスト教国家における行政上の官職に就く権利だけは認めるわけにはいかない」とユダヤ人の公職就職を否定した。1848年9月28日にはバーデン大公国ヴァルデルン市から「ユダヤ教徒の解放は断じて民族の声ではなく、ドイツ民族はドイツカトリック教徒との同権を要求していない」と請願が出された。また、同年にドイツで反ユダヤ暴動が発生した。 一方、ドイツとデンマークのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題において、デンマークがシュレースヴィヒ公国を併合すると、1848年にドイツ民族主義者が叛乱してキール臨時政府を樹立した。ドイツがキール臨時政府に援軍を派遣すると、バルト海に利害を持つロシアとイギリスが介入し、第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争となった。1848年8月26日にドイツとデンマークは休戦協定を締結し、ドイツ連邦軍は撤退し、キール臨時政府は解散した。しかし、急進派は休戦に反発して1848年9月18日フランクフルトで暴動を起こし、自由主義穏健派であったカジノ派のリヒノフスキー侯爵とアウアスヴァルト将軍を暗殺した。 翌年の1849年3月28日、フランクフルト国民議会が統一ドイツ憲法を採択した。「ドイツ国民の基本権」では「何人も宗教の如何により市民権、ドイツ国民の権利の享有につき条件が付されてはならない」として、ユダヤ人(ユダヤ教徒)へも市民権を付与するものとなった。また、プロイセン外交官ラドヴィツ指導の超党派組織カトリック・クラブは、憲法に「教会の自由」を保障するよう訴え、実現した。 同時に新憲法では、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を統一ドイツ皇帝に選出したが、王は人民主権の原則を持つ憲法を「犬の首輪」として嫌い、帝冠も新憲法も拒否した。 その後、ドイツ各邦国で帝国憲法の承認を求める帝国憲法闘争が展開した。4月末、ザクセンでは祖国協会などの革命派が憲法を求めたが、ザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世は拒否して議会を解散させた。5月にバクーニンが指揮したドレスデン蜂起が起きたが、ザクセン王はプロイセン軍を派遣して鎮圧した。オーストリアの圧力で1849年5月から6月にかけてフランクフルト国民議会は解体した。 1848年革命の失敗によって「ユダヤ教徒解放」は撤回されたが、ザクセン、ワイマール、アイゼナハなどではユダヤ教徒が大学教授や裁判官に就任するなど、ユダヤ教徒の解放は進展した。 ドイツのユダヤ人が全きドイツ国民となり市民権が認められたのは、ビスマルクによるドイツ統一によって誕生したドイツ帝国においてであった。 革命を通じて1850年代には、ヨーロッパのナショナリズムはコスモポリタン的で寛容なユートピア的なものであった愛国主義から、排外的で自己中心的なものとなっていった。
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