1848年革命の鎮圧
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「ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)」の記事における「1848年革命の鎮圧」の解説
1848年3月にベルリンで自由主義者・民主主義者・ナショナリストなどの市民軍と国王軍が衝突したことで1848年革命が発生した。宮廷内の軍支持者の代表格として知られていたヴィルヘルム王子は市民の最大の憎悪の対象だった。国王軍の蛮行の責任を彼に求める論調が強まり、彼の名前を入れた市内の御用商人の看板が次々に破壊された。 ベルリン警視総監はヴィルヘルム王子が市民から命を狙われていると報告した。兄王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は第1位王位継承者である弟に万が一がないようにと配慮し、急遽ヴィルヘルム王子に英国女王ヴィクトリアに会見する任務を言い渡した。3月19日にヴィルヘルム王子は亡命に近い形で国を離れた。妻も伴わずの亡命であり、ヴィルヘルム王子は妻も兄も見捨て逃げてしまったと自責の念に苦しんだという。しかし駐英大使クリスティアン・カール・ヨシアス・フォン・ブンゼン(ドイツ語版)に励まされてなんとか立ち直ったという。 国王自身は脱出計画を思いとどまり、市民軍の管理下に入り、妥協できる自由主義者と結んで革命を穏健化させる道を選んだ。ガス抜きの自由主義内閣を誕生させ、まもなく革命の勢いが落ちてくると、国王は5月12日にヴィルヘルム王子をイギリスから呼び戻すとの発表を行った。これに反発した市民が再び示威行進を行ったが、すでにそれは国王を翻意させるほどの物ではなかった。 その後保守主義者が反転攻勢を強め、フランクフルト国民議会(ドイツ国民議会)が定めた国民主権のフランクフルト憲法(ドイツ帝国憲法)と同議会から下された帝冠を兄王は拒否した。これに反発した自由主義者・民主主義者・労働者団体などの間で憲法制定を求める運動が高まり、憲法を拒否した邦国を中心に蜂起が発生した。多くはすぐに鎮圧されたが、バイエルン王国領プファルツ地方とバーデン大公国での反乱は拡大した。特にバーデンでは革命の影響で常備軍が人民軍に改組されていた事もあり、5月14日にはバーデン大公レオポルトが亡命してプロイセンに助力を請う事態となった。 これを受けてヴィルヘルム王子を司令官とする二個軍団・約6万人が反乱鎮圧に出征した。バイエルンはプロイセン軍の干渉を嫌い、鎮圧要請をしていなかったが、ヴィルヘルム王子の軍は独断でプファルツ地方に進軍し、バイエルン政府から事後承認を得て6月14日にプファルツ地方を占領した。さらに革命派が政権を掌握して「社会的民主共和国」を宣言していたバーデンへ進攻し、「神聖不可侵の国家理念(王権)に背いた者には容赦は無用」として徹底的な鎮圧を命じ、マンハイム、フライブルク、ラシュタットなどで捕虜にした革命家や人民軍志願兵部隊を士官・一般兵問わず無差別に処刑した。その断固たるやり方に対して民衆の間に非常な憎しみを呼び起こし、榴弾王子(Kartätschenprinz)というあだ名をつけられた。フリードリヒ・エンゲルスは「ドイツ人民はラシュタットの大量銃殺と防弾室を忘れない。この恥ずべき行いを命じた支配者どもを忘れない」と書いている。
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