1848年革命と譲位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 16:27 UTC 版)
「フェルディナント1世 (オーストリア皇帝)」の記事における「1848年革命と譲位」の解説
1848年に3月革命が勃発すると、メッテルニヒを罷免し、馬車に乗って検閲の廃止や出版の自由を約束して回り、ウィーンの民衆から歓呼の声で迎えられたが、他国で進展する革命の影響もあってウィーンの革命運動も次第に先鋭化していき、最終的には退位を余儀なくされた。 オーストリア帝位継承順位に従えば、すぐ下の弟フランツ・カール大公が子女のないフェルディナントの後継者になるはずだったが、すでに国家会議のメンバーとして旧体制の垢がしみついていたこともあって彼は帝位継承を辞退し、代わってその長男フランツ大公が「フランツ・ヨーゼフ1世」として帝位に即いた。 もしこの君主一族がこれまでに築きあげてきた揺るぎない高い地位がなかったとしたならば、フェルディナント帝の13年に及ぶ治世は考えられたであろうか。1年でさえも継続できなかったであろう。 — 当時のハプスブルク一族の代表的保守派、アルブレヒト大公
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