1848年革命と病院からの追放
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「センメルヴェイス・イグナーツ」の記事における「1848年革命と病院からの追放」の解説
1848年、ヨーロッパ中で革命の嵐が吹き荒れた。この政治的な混乱が、センメルヴェイスのキャリアにも影を落とすことになる。3月13日、陪審員裁判の導入と表現の自由を求めるデモが起きた。その中心となったのが、医学生と若い教員、それに郊外からくる労働者たちだった。2日後にハンガリーでもデモと蜂起が起きて革命へ発展し、支配者であるハプスブルク家のオーストリア帝国政府との全面戦争(ハンガリー革命)に突入した。ウィーンでは、最初のデモをきっかけとして数か月にわたるゼネストが行われた。 センメルヴェイスが1848年の一連の騒乱に関わっていたことを示す証拠はないが、彼の兄弟のうちの数人はハンガリーの独立運動に参加し処罰されている。センメルヴェイスもまたハンガリー出身であることから、革命に好意的だったのではないかと考えられている。対してセンメルヴェイスの上司であるヨハン・クライン教授は保守的なオーストリア人で、ハンガリーやチェコなどのオーストリア帝国内の革命(英語版)の動きを憂慮していた。そのため、クラインはセンメルヴェイスを信用しないようになっていた。 センメルヴェイスの第一病院の助手としての任期が切れようという時、おそらくクラインの差し金で、カール・ブラウン(英語版)が助手職に名乗りを上げ、センメルヴェイスとポストを争うことになった。ちなみに、センメルヴェイスの前任者フランツ・ブライトは2年の任期延長を認められていた。センメルヴェイスも同様に任期延長を申請し、ヨーゼフ・シュコダやカール・フォン・ロキタンスキーら医学部内の大部分の支持を得ていたが、クラインはブラウンを次の助手に選んだ。センメルヴェイスは1849年3月20日の任期切れを持って、ウィーン総合病院第一産院を後にすることになった。 この日、センメルヴェイスはウィーン当局に産科の私講師となるための認可を求めた。これは私的に学生を教え、一部の大学学部に出入りすることを許される資格であった。しかし最初の彼の申請は、クラインの反対により却下された。それでも再申請したものの、1850年10月10日まで18か月も待たされた挙句、得られたのは「理論」産科の私講師の資格であった。しかも遺体への接触や調査を禁じられ、生徒に教えるにも皮製のマネキン人形しか使うことを許されないという、極めて制限されたものであった。こうした条件を知らされたセンメルヴェイスは、数日のうちに突然ウィーンを去り、ペシュトに帰った。友人や同僚にも、引き留められることを避けるためほとんど別れを告げていなかった。彼自身は、ウィーンを離れたのは「ウィーンの医学界の主流派とやっていく中での憤懣に耐えられなかった」ためであると記している。
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