1848年革命とチャーティズム
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「チャーティズム」の記事における「1848年革命とチャーティズム」の解説
1846年のアイルランドで大飢饉(ジャガイモ飢饉)が発生したほか、1847年末からヨーロッパ各国は深刻な経済不況に苦しむことになる。 このとき、チャーティストはナショナリズム支援運動に取り組んで人々の関心を再び集めることに成功する。多数の外国人亡命者(ポーランド人やカール・シャッパーら正義者同盟を指導したドイツ系社会主義者が含まれる)がチャーティスト運動に合流し、再び国民請願を決行することが計画された。このときの請願運動は外国人送還法によって未発に終わったが、1848年フランス二月革命が勃発したことに刺激され、最後の闘争がはじめられる。こうして、彼らは運動が組織的に展開した最後の局面に突入することになる。 「ジャガイモ飢饉」および「1848年革命」も参照 ブリテンでは、第三次国民請願運動が開始される。 署名数500万を目標に掲げて署名運動を展開し、各地で大集会が盛んに開催される。若きチャーティスト弁士アーネスト・チャールズ・ジョーンズ(英語版)は、「組織なくして民衆はモブでしかない、組織を持てばそれは軍隊になる」と語り、運動の再建に務めた。「国民請願」を推進すべく、4月4日、コンベンションが開催された。ジョーンズ、ハーニー、ジョージ・レイノルズ(英語版)をはじめ左派は憲章の採択のためなら暴力的闘争を辞なさいとすると気勢をあげた。オコナー、オブライエン、ドノヴァンなど右派は暴力的方法に訴えることを一切認めずあくまで合法的運動を展開する方針を示した。恒久的な人民議会を4月24日に召集し、女王に陳情書を提出して「人民憲章」を法制化させるまで大会は解散しないことが決議される。 4月10日、請願大集会・請願デモがケニントン・コモン広場(英語版)でおこなわれる。国民請願の提出後、署名数570万を獲得したと自称していたが、議会にて処理作業したところ、無効署名が多数発見されるなど運動のお粗末さが発覚、署名数も198万足らずでしかなくチャーティスト指導者たちの面子は潰されてしまう。署名のなかに「ヴィクトリア女王」や「ウェリントン公爵」、あるいは「獅子鼻」とか「エイプリル・フール」といったの悪戯な署名や無数の女性たちの署名が含まれていたことから、チャーティストの署名運動は議員の嘲笑の的となって、本格的な審議はなされないままに終わってしまう。 ブリテン社会における選挙権とは言うなれば「特権」であって「立派な人間」(Respectable Man)がもつべき社会的承認の「指標」になるものだったので、誰にでも与えられるものではなかった。これは階級社会特有の考え方なので現代的価値観とは隔たったものであるが、一九世紀の世間一般の労働者もこのことを理解しており、その請願拒否はまさに「恥辱」といっても良いものであった。そのせいで、オコナーはすっかり意気消沈してしまい請願の撤回を余儀なくされた。 ちなみに、署名のおよそ一割が女性の名であったことが知られている。憲章協会には女性部も存在していたし、女性チャーティスト協会などの婦人団体も参加していたためこれは当然のことであった。ただし、国政レベルで婦人参政権が現実味を帯びるのは第一次世界大戦で銃後の貢献を認められるのを待たねばならなかった。悪戯はともかく、チャーティストは後の政治運動、「改革連盟」による第二次選挙法改正運動とは比較にならないほど進取の精神があり進歩的な傾向が強く、婦人参政権にも積極的な立場をとっていた。 一方、政府は蜂起をめぐる陰謀めいた噂を信じて弾圧を強化する。蜂起の噂と関係のない一部の指導者を除いてほとんど逮捕されてしまった。1848年における政府の本格的弾圧は、チャーティストの影響力を著しく削いで、活動の分裂を促す原因となった。そして、その後のブリテン経済が好景気の時代に入って社会の安定を取り戻すことによってチャーティスト運動は最後の崩壊期に至る。
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