最後の闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 08:18 UTC 版)
1848年後半「全国憲章協会」は政府の弾圧のために空洞化し、チャーティスト諸派の分立状態が進行した。 ラヴェットをはじめ穏健派は「人民連盟」を組織し、リチャード・コブデンやジョン・ブライトなどのブルジョア急進主義に基づく改革運動との提携を試みた。また、ヘザリントンやトマス・クーパー(英語版)は「人民憲章協会」をつくる。オウエン主義者との提携の後「社会改革連盟」を樹立した。彼らは労働者階級のみで推進する古典的なチャーティズムから離れていたのである。急進派オブライエンの「全国改革連盟」は、成人男子選挙権の獲得のみならず、救貧法改革、税制改革を要求する政治改革運動に取り組む。共産村の建設や土地・鉱山・漁業権国有化運動、通貨改革運動など「社会改革」にも積極的に携わった。一方、より急進的なハーニーは「人民主権」の確立と万国のプロレタリアートの連帯を呼びかけた。『レッド・リパブリカン』(英語版)を発行、運動の再統一の必要性を高めていった。1850年、同紙はマルクスの『共産党宣言』を掲載している。もはや、チャーティスト運動の一部はマルクス主義へと合流していたのである。 「カール・マルクス」、「マルクス主義」、および「共産党宣言」も参照 1850年、「民主主義者会議」を開催、チャーティスト各派が集結した。統一目標として万国の労働者の連帯・全資本の共有・人民憲章・労働全収権の獲得が掲げられた。目標実現のための手段に暴力的方法を認めるか否か「人民憲章」と「社会改革」、どちらを優先させるか意見の不一致が生じた。1851年3月、コンベンションが開催され、「人民憲章とそれ以上のもの」の獲得を目指すとして政治的平等に加えて社会的平等に基づく「赤色共和主義」を実現させることが謳われた。国民請願の実行のために「新綱領」が採択された。この綱領は共産主義そのものとなっていた。一切の暴力行為を承認せず、合法的な組織と手段を用いるが、中産階級との提携は行わず、労働者階級の主導権を保障すること、「人民憲章」の完全無欠な獲得を目指すことが確認された。成熟した議会制のもとで普通選挙権を導入できれば「人民主権」を実現できる可能性が十分あるとみなしていた。普通選挙獲得を契機にブリテンで清教徒革命以来の大革命が平和的に進み、やがて「赤色共和主義」が現実になる、その手段として『人民憲章』の実現には大きな意義があると考えられていた。 『ノーツ・トゥ・ザ・ピープル』では土地国有化、完全な政教分離(教会財産の国有化・十分の一税の撤廃)、教育の機会均等(初等教育の義務制・高等教育の無償化)、救貧法や税制の改革(不平等課税撤廃・強度の累進税導入)、労働問題の恒久的解決(賃金奴隷制の廃止・協同組合原理の推進・全国的社会連合体の組織化)、商業問題の解決(階級政府の国債の完全償却・通貨改革)、軍隊の民主化、出版の自由の保障が掲げられた。
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