『人民憲章』
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一方、ロバート・オウエンは、様々な職種の職人達を糾合して労働組合の組織化を手伝っていた。1834年には労働組合大連合(英語版)を発足させた。各地のストライキを支援し続けたが、その多くが資本家によるロックアウトで挫折していく。やがて、「大連合」の足並みは乱れ始め、戦闘的なストライキを試みる組合指導者と階級協調や協同組合主義を模索するオウエンの立場は隔たっていく。かくして「大連合」は崩壊してオウエン主義の後退が生じるが、この間隙のなかで選挙法改正運動において次なる運動-チャーティスト運動-が急激に浮上していく。 1836年の恐慌に際し、ヘザリントンとラヴェットをはじめとするロンドンの指導者たちは6月6日に集会を開いた。ロンドン労働者協会(英語版)(以下LWMAと略記) を設立した。執行部は声明を出し、「イギリスには21歳以上の男子が602万いるうち、84万人にしか選挙権が与えられていない」ことを指摘した。「将来の奴隷制」(苦汗制度・現代的にはワーキング・プア)の根っこに存在していた腐敗した議会による支配構造を合法的に断ち切って平等な社会を実現させることを目標に、志ある人々の結集を呼びかけた。1837年5月31日と6月7日にLWMAと急進派議員が協議をし、綱領を起草して議会に提出することを誓約した。ラヴェットが草案を書き、著名な急進主義者であったローバックとフランシス・プレイスが手を入れたものを採択して1838年5月8日『人民憲章 - 庶民院におけるグレート・ブリテンおよびアイルランドの人々の正しい代表を規定する法案』が発表された。憲章の六項目は以下のような内容である。 成人男子選挙権 秘密投票 毎年選ばれる一年任期の議会 議員に対する財産資格の廃止 議員への歳費支給 十年ごとの国勢調査により調整される平等選挙区 1838年、バーミンガム集会が開催され、各地の代表団がこれに参加した。同集会では『人民憲章』を統一綱領に改革運動を結集する方法が検討された。「国民資金」の名で寄付を募って活動資金を調達すること、そして、「国民請願」と呼ばれる署名運動を推進し、代表団を選出して『人民憲章』を署名とともに議会に提出しようとした。この大会はチャーティスト運動の正式な幕開けとなった。 『人民憲章』とその壮大な理想は、多くの共感者を集めた。チャーティスト弁士ジョゼフ・レイナー・スティーブンス(英語版) は社会の本来あるべき理想を以下のように語り、『人民憲章』獲得によってこれらの理想が実現され、労働者の「幸福」が成就されるであろうと人々に約束した。 「普通選挙の問題は、日常生活上の問題である。普通選挙とは、国内の労働者が良い上着を着、快適な家を持ち、食卓には良い食事を、健康を維持できる範囲で仕事をし、人生の恩恵を十分に受けるに足る賃金を、仕事の報酬として有する権利をもつことである。普通選挙によって、知識を頭に、原理を心に、気力を良心に、力を右手にもち、労働者が雇用主に堂々と対立できるようになり、労働者が工場にいるときでも、野原に行った時のように自由な気分でいるのを見たい。」 かくして、運動は盛り上がりを見せ、各地の運動家たちは各地の集会で選挙を実施し、54名の評議員を選出し、1839年2月4日、代表者は「ジェネラル・コンベンション」(以下コンベンションと略記)なる会合をロンドンで開催した。これは単なる幹部会ではなく、フランス革命の「国民公会」を模して招集されたもので、多くのチャーティスト指導者にとっては「評議会」であった。最も有力な指導者であったファーガス・オコーナー(英語版)は庶民院に代わる唯一の代表機関「人民議会」として位置づけていた。コンベンションは庶民院に革命の脅威を説き、庶民院に譲歩を試みようとした。『人民憲章』の法制化を要求する「国民請願」を敢行すると決議した。しかし、運動内部に派閥が形成されていた。
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